バロニアに来るたびに、私はいつも一人取り残されたような気持ちになる。

 

 

『 おいてきぼり 』

 

 

 

 

 

「アスベル、ここに姿を見せるのは久しぶりじゃないか!」

「ああ、元気か?」

地面に転がる輝石の欠片が太陽の光に反射してきらきらと輝く王都―バロニア。先を歩くアスベルの背中はどこか嬉しそうだ。王都に着いてからというもの、彼は忙しなく人々に声を掛けられ、それに朗らかに応えている。相手は、近所のおばさん、商人のおじさん、騎士学校の生徒まで、老若男女問わず様々だ。けれど、特に同年代の女性と話している姿は嫌でも目立った。ただでさえアスベルの容姿は女性の目を引くというのに、本人は寄せられる好意の種類関係なく分け隔てなく接する。それがアスベルの良さだと分かっていても、綺麗な女性が寄ってくるたびに、私ばっかり、焦って、むっとして、焼いてばかりいる。

「フッ…。」

隣で小さく笑う声が聞こえて顔を上げれば、教官と目が合った。私がアスベルを見ながらやきもきしているところを、教官に一部始終見られていたらしい。なんだか恥ずかしくなって顔を伏せれば、教官は何事もなかったように前を歩くアスベルに声をかけた。

「アスベル、ここで一旦解散にしないか?」

教官の呼びかけに、それまで騎士学校の女生徒らしき人物と話していたアスベルは、その子との会話を終わらせて後ろに向き直った。自然と、それにつられるように他の仲間達の足取りも止まる。アスベルは少し逡巡した後、口を開いた。

「教官、…そうですね。ここで解散して、あとで宿屋で合流しましょうか?―みんなもそれでいいか?」

教官の意見にアスベルも賛成して、みんなの同意を求めて仲間達を見回した。口々に賛成の意を示す仲間達。パスカルに至っては自慢の杖を振り回して、休憩〜、休憩〜と喜んでいる始末だ。

「なら、夕方には宿屋で落ち合いましょう。宿屋の予約は俺が取ってきますね。」

そう言って、アスベルは宿屋の方に歩いていった。彼の後姿を見送りながら、アスベルが予約を取った後どこに向かうかが気になった。先ほど話していた騎士学校の友達にでも会いに行くのだろうか?王都での彼の行動が、まったく見当がつかなかった。ただ彼のことを分からないというだけで、7年の溝がすごく大きなものに感じる。いつもならば買出しと称して、アスベルに買い物に付き合ってもらうこともできる。けれど、ついこの間道具を補給したばかりだったのを思い出した。今日はどうもついていないらしい。

「シェリア。」

少し落胆していると、隣から教官が私の肩を叩きながら声をかけてきた。アスベルのことばかり気にしていることを悟られないようにと平静を装ってみるも、教官にはそんな心中などお見通しらしい。口は引き結んでいても、…教官の目は笑っていた。

「ここはラントとは違うぞ。そんなに他の女と話しているのが嫌なら、あいつをしっかりガードしたらどうだ?」

「な!?わ、私は…べ、別に!!?」

ボソッと私だけに聞こえるように囁かれた提案に、間髪いれずに否定する。否定するも、その言葉が図星だっただけに、思いっきり狼狽してしまった。教官はそんな私にお構いなしに追い討ちをかける。

「そうは言うが、さっきから眉間に皺が寄っていたぞ。」

「そ、そんなこと…」

否定したい気持ちに駆られながらも、そう言われて恐る恐る眉間に手で触れてみた。いくらアスベルのことが気になっていたとは言え、私はそんなひどい顔をしていただろうか?けれど、触れても分かるはずもない。教官に反論しようとしたところで、ヒューバートが私たちのやりとりを察したのか話に割って入る。

「まぁ、仕方ないんじゃないですか?」

どこか誇らしげに言ったヒューバートに、意図が分からず首を傾げる。それでも、ヒューバートは気分も害した様子もなく話を続ける。

「あの兄さんのことです。ここに七年もいたのですから、街の人間にずいぶんと慕われてもおかしくない。シェリアが焼くのも無理はないですよ。」

まるで自分のことのように兄を誇るヒューバート。素直じゃないようで、いざというときにはここぞとばかりに兄想いを発揮する。けど、自分の弟のようなヒューバートの言葉を鵜呑みにできるほど、私はまだ素直になりきれていなかった。

「や、焼いてなんかっ…!」

「焼くって何?シェリアは何を焼いているの?」

言って後悔した。新しい言葉に反応したのか、別行動を取るわけでもなくその場にいたソフィがじっと私を見上げ尋ねてくる。純粋な瞳でかわいらしく首を傾けながら問いかけられては、一瞬言葉に詰まった。どう答えたらいいだろう…?

「シェリアはアスベルを独り占めしたくてしょうがないんだ。だから、みんなに嫉妬している。」

「ちょっ、教官なんてこと言うんですか!!?」

ソフィからの質問を流そうとしたところで、一足遅く教官に余計な一言を言われてしまった。間髪いれずに否定してみても遅い。ソフィはしっと、しっと…と言葉を繰り返しているし、私が何より“独り占め”という言葉に反応して顔中に熱が集まってしまっている。これではいくら言葉で否定したところで意味がない。そんな自分に嫌気が差す始末だ。

「…しっと。だから、シェリアさっきからずっと怒った顔しているんだね。」

「そ、そんなことないわよ…、ソフィ。」

私の顔をまじまじと見つめながら、納得したように手を叩いたソフィ。少女に否定しながらも、笑顔は大きく引きつった。ソフィにまで言われしまったら、なんだかとても情けない気持ちになるのは気のせいだろうか。少女に指摘されてしまうくらい、私はよっぽど酷い顔をしていたらしい。ソフィにさえ気づくのに、どうして肝心の本人には伝わらないのか少し複雑な気分になった。

 

 

 

 

けれど、気になるものは気になる。

教官たちにからかわれた後も、アスベルがどうするのかどうしても気になって宿屋を目指しながら彼の姿を探した。一人バロニアを歩くと思い出す、7年の時を経てアスベルに会うためにこの街を訪れたこと。アストン様が亡くなってばかりで、失意も混じった怒りがあったあの頃。騎士学校に近づくにつれ、一歩一歩どんな恨み言を言ってやろうか考えたりもした。けど、本人に会ったら、それまでの恨み辛みごとが真っ白になるくらい吹き飛んでしまった。そんなことが消えてしまうくらい、最初に彼に見惚れてしまった。7年前もそうだ。アスベルがラントを去ることを決意してしまうほどの悲劇を与えた場所もバロニアだった。だから、私はどうしてもこの街が好きになれない。

ふと、視界に白が映った。アスベルだ。

「アスベ…」

「あ、アスベルさん!」

いつものようにアスベルに声を掛けようとしたけれど、それすらも遮られて上げようとしていた手を下ろす。アスベルを挟んで私とちょうど反対側、黒髪の女性が彼に駆け寄ってきた。

(…あの娘は誰?)

見知らぬ女性がアスベルに話しかけるのを見て、考えるよりも早く体が勝手に動いた。さっと建物の影に身を潜める。どうして自分がそうしたのか分からなかったが、なんだかあの場に居てはいけないような気がした。

「…アスベルさん、お久しぶりです。」

「ああ、エリスも元気だったか?」

…どうやら、この娘もアスベルの知り合いらしい。間近で見たわけではないが、声色は少しおっとりとした雰囲気があった。

(一体、何人女友達がいるのよ!)

おそらく、自分もその内の一人に数えられているだろう。それでもやり場のない怒りがふつふつと湧き上がる。ある意味、ラントでは見られない光景だった。アスベルは前領主の息子として街中の人々から敬われ、期待されている。そして、私がアスベルに寄せている感情も街の人々からすれば公認で、あえてそういう目的で近づいてくる女性もいなかった。…彼が7年間ラントを空けていたということも大きく影響していると思うけど。だから、余計分からない。幼馴染というポジションでどこまで彼に踏み込んでいいかも、知ることを躊躇する7年間の埋め方も分からない。あの幼い日、彼と過ごした温かい思い出すら、このバロニアでは通用しないのだ。

「はい、アスベルさんはこれからはずっと王都に…」

「いや、まだまだやることがあって、今日はたまたま寄っただけなんだ。」

「アスベルさんは、いつまで王都にいるんですか?」

「明日にはまた出発しようと思う。」

「そ、そうですか…。」

感傷に浸りながらも、すぐ近くではのほほんとした会話が繰り広げられる。見えなくても、聞いていれば分かる。この娘はどうやらアスベルに王都に留まってほしいという気持ちがあるようだ。しかし、そんな女性の気持ちとは裏腹に、それにはまったく気づかないアスベルは普通に受け答えをしている。ライバルが山ほどいるバロニアで、アスベルの鈍感さがもしかしたら唯一の救いかもしれないと自嘲気味に微笑んだ。どうせこの娘も、ここまでだ。アスベルの鈍感さに玉砕して、この辺りで身を引くのが関の山だろう。そう思って、アスベルに気づかれないようこの場から去ろうとした。

「…アスベルさんにお願いがあるんです!」

(…え?)

思わぬ言葉に、足を止めじっと聞き耳を立てる。

「明日少しだけ、時間を作ってもらえないですか?」

「エリス、急にどうしたんだ?」

「―…私、近々故郷に帰ることになったんです。当分、バロニアに帰ることもできません。だから…、」

「そうか、…故郷の状況が大変になったんだな。」

神妙な口調で話す娘の声と、その事情を知っているような口ぶりで答えるアスベル。このやり取りを聞きながら、嫌な予感がした。これ以上聞きたくない、聞いちゃいけないと思う反面、足はまるで棒のように動かなかった。

「だから、王都を去る前にどうしてもアスベルさんと湖を見ておきたくて…。ダメ、ですか?」

「分かった、仲間に聞いてみるよ。今日はシフト入っているのか?」

「住み込みで働いていますから、カウンターで声を掛けていただければ。」

「ああ、そうするよ。じゃあ、また後で。」

(これじゃあ、ただの盗み聞きじゃない。)

全て聞いてしまった後で、我に返った。もしかしなくても、これは紛れもなくこれはデートのお誘いで、アスベルの性格だとこれにはきっと応じるだろう。

どうして、その場を去らなかったのだろう。聞いてしまったことを後悔した。アスベルが他の女性と親しげに一緒にいる姿を見たくない。けど、聞いてしまったことを何も知らなかったように放っておける自信もない。

(―…どうすればいいのよ!)

声にならない叫びは心の中で木霊して、ずるずると地に膝をつき崩れ落ちる。アスベルの隣は相応しくないと、この街に突きつけられたようだった。

 

 

 

 

あれから、バロニアでもてはやされるアスベルを見ていられなくて、街を出て外の空気を吸いながら時間を潰していた。あの娘の申し出、アスベルの態度―先ほどのことが頭をぐるぐると回って離れない。そうこうしている内に周りはすっかり暗くなり、重い腰を上げて宿屋に向かった。

「…ただいま。」

みんなと合流するために宿屋の扉をくぐる。声色がいつもより覇気がないのは仕方のないことだろう。思ったより遅い帰りになってしまったので、もう全員揃っているはずだと宿屋のロビーを見渡すと、今は顔を合わせづらい彼の姿だけ見えなかった。

「おかえり〜、シェリア遅かったね。アスベルもまだ戻ってないみたいだけど。」

「―アスベルが?」

笑顔で出迎えてくれたパスカルに、驚いて問い返す。教官やパスカルなら分からないでもないが、彼が遅くまで戻らないということは珍しい。刹那、先刻の出来事が頭をよぎった。もしかしなくても、女性に言い寄られたりしていないだろうか?好意を持つ女性にも、優しげな笑みを浮かべて接するアスベルの姿を想像して、自分でも血の気が引いていくのが分かった。

「―リア、シェリア?どったのー??」

「へ?」

パスカルに不思議そうに顔を覗き込まれて、やっと我に返る。ボーっとしてどうしたのと、問う彼女になんでもないと首を振ると、イスから立ち上がった。

「私、アスベルを…」

「ただいま!」

彼を迎えにいこうとしたところで、快活な声と共にドアが開く。ここまで急いで来たのだろう、少し息を切らしながら開いたドアからアスベルが姿を現す。

「遅いぞ、アスベル。」

「そうですよ、兄さん。あなたがチェックインをしたんですから、皆が部屋に入れないじゃないですか。」

教官とヒューバートが口々に彼を咎める。アスベルも悪いと思っていたのか申し訳なさそうにおずおずとロビーに入ってきた。

「すまない、みんな。」

頭を下げるアスベルに、そんなことを気にした風もなく今度はパスカルが声を上げる。

「早く休もうよ〜。明日も朝早いんだからさ、早く部屋に入って寝たいよ。」

パスカルは強引にアスベルの手から鍵を受け取ると、部屋がある2階に行こうと階段を上る。

「そのことなんだが、みんな聞いてくれ…!」

パスカルを筆頭に部屋に行こうとした仲間達を制止したのは、他でもないアスベルだった。みんなが一様に彼の方を振り向く。

「いきなりどうしたの、アスベル?」

アスベルの行動を怪訝に思ったみんなを代表して、パスカルが問いかける。すると、彼は一瞬何かに迷うように視線をそらすも、しっかりと真摯に仲間達を見やる。やがて、意を決したように口を開いた。

「その…、バロニア滞在をもう一日伸ばしてもらえないだろうか?」

アスベルの謙虚な申し出に、どこからともなく安堵の息が漏れる。いつになく真剣な彼の態度に、もっと重要な申し出かもしれないと思ったのはみんなも同じらしい。

「珍しいですね。パスカルさんならともかく、兄さんがそう言い出すなんて。」

眼鏡を人差し指で押し上げながら、ヒューバートが率直な感想を漏らす。そうしてもらえるならこちらも助かるな、と続けたのは教官だった。

「騎士学校もずいぶんと慌しいようだ。顔を出せるのなら、いくつか片付けたいことがある。」

「あなたがそう言うなら、いいんじゃないんですか?普段から寄り道したがらない兄さんの提案ですから、僕も異論はありません。」

アスベルの申し出に教官は賛成し、ヒューバートもパスカルが言い出すときとは違って、特に反対もしなかった。保護者二人の意見がまとまりそうなのを見て、私は慌てて話に割って入る。

「私は反対よ。リチャード陛下に追いつくためにも、明日には王都を出るべきだわ。」

私の意見にみんながそれぞれ驚きの表情を浮かべ、一時の沈黙が流れる。

かわいくない。こんなこと言ったらかわいくないってことだってちゃんと分かってる。でも、偶然にでも知ってしまった以上、素直にアスベルを他の女に貸せるほど余裕なんてなかった。

「シェリアこそどうしたんですか?普段から積極的に休息を取ろうと心掛けているあなたが、そんなことを言い出すなんて…。」

ヒューバートは何かを感じ取ったのだろう、遠回しに言うに止める。教官にいたっては、こちらの意図に感付いたのだろう口元だけが笑っていた。

「べ、別に、私は買出しも休息も済ませたし、早く次の場所に移動したほうがいいって言っているだけよ!」

なんとなく保護者二人の視線が痛い。二人から視線を外しながらも、きっと後で何か言われることは予想がついたがここは譲れなかった。しかし、そんな心情になんてまったく気づいていない今回の提案者本人は、純粋に言葉を受け取ったのだろう。再度、頭を下げて熱く願い出た。

「俺だって優先するべきはリチャードのことだって分かっている。けど、明日一日だけでいい!友人の力になってやりたいんだ。駄目か、シェリア?」

この純真さが憎い。こちらの心情なんてまるで分かってなくて、鈍感で…。アスベルから真剣に頼まれたら、こちらが折れざるを得ないのを分かってないでやっているんだから。

けど、このまま素直に負けるのが悔しくて、アスベルの真摯な瞳から逃げるように顔を逸らすと、2階にある自分達の泊まる部屋に向かった。

「おい、シェリア?」

話は終わってないだろ、とアスベルは訳が分からず私を呼び止める。

「だったら、私の意見なんか聞かずに好きにすればいいでしょ!?」

この鈍感っ!とありったけの怒りの気持ちをぶつけて、アスベルに向かって怒鳴った。

 

 

 

 

結局、明日もバロニアに滞在することが決まり、仲間達は各々休息ムード一色に染まる。

その頃、女性部屋―

 

「それにしてもさっきはいきなりシェリア怒るんだもん、びっくりしたよ〜。」

久々にお風呂に入ってすっきりしたのかパスカルは、ベッドに横たわりながら体を伸ばし、隣でソフィの髪を乾かしているシェリアに向かって遠慮なく口を開いた。シェリアもパスカルの発言でアスベルの事を思い出したのか、思わず眉根が吊り上がる。

「わ、私は、別に…!」

そう言って自分が声を荒げていたのに気づき、手で口を押さえる。これでは誰が見たって怒っている。咳払いひとつ、そして心持ち声のトーンを低くしてパスカルの言葉を打ち消した。

「…怒ってないわよ。」

「どこからどう見たって怒ってるって。そんなに焼きもち焼くくらいならさ、素直に言っちゃえばいいのにー。」

だが、パスカルはシェリアのそんな様子も見透かしたように、勝手に話を続けた。

「だから、違うってば!」

「いやぁ、青春だね〜。」

どんなに否定しても、ニヤニヤ笑ってまるで意に介さない。真実を知ってか知らずか呑気なパスカルに、シェリアは相手にするのを諦めた。しかし、意外なところから新たに彼女を追い詰める指摘があった。

「シェリア嘘ついた。パスカル、正しい。」

「え?」

タオルで水分を拭き取るシェリアに邪魔にならないように振り返りながらも、ソフィは菫色の瞳を向ける。ソフィの言葉に戸惑うシェリアに、もう一度確認するように呟く。

「シェリア、また怒った顔してる。だから、パスカル正しい。」

「それは…、」

純粋な瞳を向けるソフィに、いくら考えても否定の言葉が見つからない。

「…しっと、なの?教官が教えてくれた。そういうのって嫉妬って言うんでしょ?」

新しい言葉を覚えたと喜ぶソフィに、私は肯定も否定もできなくて曖昧に微笑み返した。

 

 

その夜の男性部屋―

 

「それにしても、シェリアの奴機嫌が悪かったな。何であんなに怒っているんだろう?」

剣の手入れをしながらも、先ほどの夕食のときを思い出しているのか、アスベルはげんなりとした表情を浮かべている。彼が問いかけた相手は、これまたベッドの上に座って紙に何かを書き込んでいる実弟だった。

「はぁ、兄さんがまたシェリアに変なことでも言ったんじゃないんですか?」

ヒューバートはノートから目を逸らさずに、呆れたように答える。彼も先刻のアスベルとシェリアのやり取りを思い出してか、ため息を漏らす。あのロビーの出来事があってからも、シェリアの機嫌が良くなることはなかった。まるで、時を戻したかのように、アスベルに対してだけ妙に冷たい。対するアスベル本人も何がシェリアを怒らせているのか分かっていないだけに、さらに問題であるのだが。

「今日は別に、無神経なことを言った覚えはない。」

ヒューバートの言葉に反論して、少しむっとしたように返す。シェリアとは幼馴染だけあって衝突することもしばしばで、鈍いアスベルの発言がシェリアを怒らせることも間々あったが、今回は少し違うようだ。

「なら、おまえの行動に原因があるんじゃないのか、アスベル?」

兄弟の話に割って入ってきたのは、お風呂から上がったばかりの教官だった。それまでの二人の話を聞いていたのだろう、まるでシェリアの怒っている原因を知っているような口ぶりにアスベルは食いついた。

「教官、それはどういう意味ですか?」

「意味も何も、今日はずいぶんと遅かったじゃないか。バロニアに女でもいるのか?」

「女?…教官が何のことをおっしゃりたいのか分かりません。」

少しからかう意味を込めてマリクは言ってみたのだが、頭に疑問符を浮かべて真剣に問うてくるアスベルには伝わらなかったらしい。これではシェリアも報われないな、と苦笑しながらも別の質問を投げかける。

「おまえが力になりたいと言った奴だが、それは騎士学校の者か?だったら、俺も何か力を貸せるとは思うが…。」

そうマリクが助けを申し出ると、アスベルは少し笑って頭を振った。

「教官、違いますよ。俺も力になるとは言いましたが、結局のところ彼女に何もできませんでした。…明日は見送りに行くんです。」

「そうか。」

何かを思い出しているだろうどことなく寂しそうに話すアスベルの横顔を見ながら、マリクは静かに頷く。アスベルの言う友人が女性であることに一抹の不安を感じながらも、それ以上問うことができなかった。マリクは一人、心の中で明日が平穏に過ぎ去ることを願った。

 

 




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