「幸福が帰る場所?」
ファラのオウム返しの問いかけに、チャットは大きく頷いて肯定した。
「ここには確かにメルニクス語でそのように書いてありますね」
チャットが読んだ石碑を同じように見つめる。ファラが頑張っていくら目を凝らしたところでその文字を読み取ることはできないが、メルニクス語が母国語のチャットが言うのだから間違いはないだろう。チャットの言った言葉を疑っているわけではないが、この柔和な言葉が刻まれている地に一体全体どうしてそんなことが起こりうるのだろうか?まだ敵の正体さえ掴めてはいなかったが、この先に潜んでいるだろう敵を想像してファラは虚空を睨みつけた。
ファラたちにとっての事の発端は、ラシュアンにチャットがやってきたことから始まった。
「リッドさん、ファラさん。緊急事態です、今すぐセレスティアに来てください!」
そして、チャットに言われるままバンエルティア号に乗り、セレスティアに向けて出発した。セイファートリングを壊して別々の惑星になったと言ってもバンエルディア号では、1日半の工程である。最初にセレスティアまで行ったときは、あまりの近さにリッドたちも驚いたものである。ラシュアンから王都インフェリアを目指す方が、よっぽど時間を要するだろう。
チャットからやっと事情を聴くことができるようになったのは、星間の航程が安定して自動操縦に切り替えてからの事だった。
「で、何があったんだよ。チャット?」
それまで、緊急事態だという他は何も知らせていなかったリッドたちである。詰め寄る口調になってしまったのはこの際仕方なかった。
「緊急事態って言ってたけど、セレスティアで何かあったの?」
まさか、キールやメルディたちに何かあった?
そこまで踏み込んだファラの問いかけは、半分正解で半分間違っていた。
「実はメルディさんが…、」
そう言いかけたチャットの言葉が、中途半端に途切れたのは彼女の言葉を待っていたファラの表情がさっと青ざめたからだ。最悪の場合を想定させてしまったのは、火を見るより明らかだった。
ああ、この言い方はまずかったかな、とチャットが後悔する間もなく、リッドが二人の間に割って入った。
「ファラ、落ち着けって」
宥めるように、安心させるようにリッドが軽く肩を叩く。
「えっと、ですね。今、キールさんが何を研究されているかは、お二人はご存じだったでしょうか?」
二人に安心させるように切り口を変えてみると、二人とも強張った顔が少し和らいだ。ファラを宥めたリッドも内心ではいろいろな憶測があったらしい。今更ながらに、事情を説明するのを後回しにしてしまったことをチャットは反省した。どうやら余計な心配までさせてしまったようである。
「確か、セレスティアの晶霊の活用方法を勉強しているんじゃなかったか?」
リッドが応えると、呆れたのはチャットだけではなかったらしい。
「そんなことキールに言ったら怒られるよ、リッド。確か、今はメルニクス文明について研究しているんじゃなかったっけ?」
「もう、リッドさん!ファラさんの言うとおりですよ。…リッドさんの言っていた内容は、随分と前の話だったと僕は記憶しているんですが」
というか、それはセイファートリングを破壊し、キールがセレスティアで生活を始めて間もないころの話のはずである。だが、リッドは大して興味がないのか、少女たちに口々に突っ込まれても、「あいつ自分が研究している話しすると異様に長いんだよな」とこぼす始末である。大方、キールから話を聞いても聞き流していたに違いない。
「そのキールの研究内容やらが、今回の話にどう関わってくるんだ?」
やはり大して興味はそそられないらしい。本人がいないのをいいことに、リッドは大雑把に先を促した。
「そのキールさんが研究しているメルニクス文明の遺跡を、先日僕が航海中に偶然発見したんですよ。それをキールさんに話したら、もちろん調査に向かわれました。
ですが、その調査で一緒に同行していたメルディさんの様子が途中でおかしくなってしまって―、」
「メルディの様子がおかしくなったって、極光術となにか関係があるのか?」
ファラよりもリッドの表情が剣呑になったのに気付いて、チャットは大きくかぶりを振る。チャットもメルディが闇の極光術の素質を持っていることは知っているが、詳しいことは実は何一つ知らない。旅の途中その場に居合わせなかったのも大きいが、本人ができるだけ隠しておきたいことをわざわざ聞くのは憚られたのだ。もともと深くは詮索しない性質だが、探りだけでも入れておくべきだったかと少し後悔する。おそらく、リッドもそのことを懸念しているのだろうと思って、再度声に出して否定した。
「おそらく極光術のことは関係ないと思いますよ。どちらかというと、意識がこちらにないような、そんな気がします」
「意識がない?」
「その…、何と言いますか。夢心地と表現したらいいですかね?話しかけても上の空ですし、心ここに非ずって感じで。それなのに、キールさんがメルディさんの異変に気づいて、もう帰ろうと言いだしても、その遺跡から離れようとしないんですよ」
それはチャットが話しかけようが、キールが言おうが同じだった。クィッキーまでもがメルディの気を惹こうとするが、それも不発に終わる。ついには、ご飯だと言って差し出したおにぎりや水にも全く手を付けないので、キールが観念して「リッド達を呼んでこい」と白旗を上げたのだった。
その経緯を伝えると、リッドもファラも黙り込んだ。正確には、頭を抱えたと言った方が正しいだろうか。
「リッドさんの言うように極光術が何か関係あるなら、まだ問題が明確なだけいいんですけどね」
思わず漏れ出た本音は、吐き出すと一層空気が重くなったようで、チャットは自分の言葉に却ってげんなりするのだった。
チャットが最初に“遺跡”と評した場所は、建物さえなかったならば、丘と形容しても差し支えがなかっただろう。セイファートの試練を受けたあの建物とどこか関連を感じさせるような造りだが、遺跡という割には建造物があまりない。円形のドームのような白い建物がどうにかその存在を誇示するだけで、それがなければただのおかっぱらだ。やけに草花が多く生い茂っていて、セレスティアに渡ったとは思えない風景が広がっていた。
「なんか、まだインフェリアにいるみたいだね」
ああ、と言葉少なにファラの意見に頷く。インフェリアとセレスティアでは、支配する晶霊がまったく違うので、植物、動物の生態系、気候などほとんど異なっている。当たり前のようにインフェリアにあるものが、ここセレスティアにはないことが多い。だから、ラシュアンの川辺でよく見かける星蛍をセレスティアで見かけたときは、リッドもファラも大層驚いたものだった。だが、ここの丘には明らかにインフェリアのものだと思われるような花がそこかしこに咲いている。けれど、それよりもリッドには気になることが一つ。
(…似てるよな、あそこに)
自分が生まれ育った村といつも隣り合わせだったあの危険な場所に。遺跡ではなく、丘だと思ったのもそのせいだ。二人にはバレないようにそっと、周囲の風景からファラへと視線を移す。ファラの表情は曇ってはいない、一生懸命泣きそうなのを堪えて無理に笑っているわけでもない。それを確認して、リッドはほっと息をついた。いつものファラだったらきっと「綺麗だね」って笑うくらいの絶景だ。でも、そうしないということは、ファラも少なからずあの丘のことを意識しているのだろう。
と、それまでにこやかに風景を眺めていたファラの視線が、一つのところで止まった。
「これ何かな?チャット、ここに何かメルニクス語で書いてあるみたいだよ」
言われてチャットも、ファラが見つめている石碑に駆け寄る。
「『幸福が帰る場所』って書いてあるみたいです」
「幸福が帰る場所?」
「さぁ、僕にもよく意味は分かりませんが。ここには確かにメルニクス語でそのように書いてありますね」
少し離れた場所でファラとチャットがそんなやり取りをしているのを軽く聞き流しながら、リッドは用心深く入口に近づいていく。
チャットは極光術の影響は低いと言っていたし、魔物もいなかったと言っていた。けど、メルニクス文明の遺跡というならば、それこそネレイドの一部が封印されてもおかしくない場所なのだ。
いつでも振れるように剣の柄を握りしめながら、一気に内部に入り込む。鋭い視線を投げかけて伺った先は、あの丘の事を意識するあまり警戒していたリッドの意表を完全に突く形となった。
「すげぇ…」
緑の絨毯の上に白が広がっている。白い建物を飾りたてるように、小さく無数に光る白が美しい。よく見るとすべて同じ花が群生しているようだった。風が通るたびに、草に隠れて見えなかった白が次々と顔を出す。実のように連なっている姿が、まるで音を奏でるかのように。
「…リッド、リッドってば!」
気づいたら遠くにいたはずのファラがリッドの隣にまでやってきていた。こういう時は大抵、リッドがファラの呼びかけに気づかない場合がほとんどだ。
「悪い、中の様子探ってた」
そうやって軽く拝んだふりをすると、ファラはそれ以上咎めずに先程までリッドが眺めていた景色を見る。
「綺麗だね」
そう言って笑った顔が、普段だったらきっとこんな顔するだろうな、とリッドが先程思い浮かべていた表情だったので、思わず言葉に詰まる。
そんな顔して笑ってほしい、とリッドが思っていたことなど本人は知る由もないのだろう。
どれだけ二人でその景色を眺めていたのかは分からなかったが、やがて遠くからよく知った声が聞こえてきた。
「リッド、ファラー!」
肝心の要件を思い出して、リッドもファラも問題を解決すべく頭を切り替えたのだった。
キールと会うのは久しぶりだったが、お互い挨拶もそこそこにメルディについての状況説明が始まる。
「昨日の夜からメルディとは完全に話ができない状態だ。こっちが何を言っても一切反応しなくなった」
綺麗な景色に反して、キールの顔色は一層青白く生気を欠いていた。その様が、リッドたちが考えていた以上に事態が深刻だということを告げている。
「メルディを強引にここから連れ出すことはできないのか?」
リッドの尤もな指摘に、キールが首を横に大きく振る。
「そんなことしてみろ、問答無用で上級晶霊術の餌食になるぞ。それくらい今のメルディはこの場所について執着しているんだ。仮に、上手いことメルディをここから連れ出せても、あの状態から抜け出せなければ意味がない。今のところは、どうしたってメルディのあの症状についての解明が先だ」
「ってもなぁ…」
唸ったリッドに対して、ファラはずっと微動だにせず座っているメルディに近づいた。ファラがメルディに声をかけても、揺さぶってみても、まったくの反応がない。
まるで、魂の入っていない人形だ。
「極光術は、なにか関係はないのか?」
「僕もまだそこまでは断言できない。ここはメルニクス文明のものにしては珍しく、文献という文献が残っていないんだ。この遺跡が何のために造られたかも、手がかりもまだ何も掴めていない」
男二人が重々しくため息を吐くと、ファラも観念したのかのように顔を上げた。
「だめだよ、メルディ全然反応してくれない。キールの言うとおりだったね」
「クィッ」
メルディの傍に寄り添っていたクィッキーも、そんなファラの言葉を肯定するように寂しそうに鳴く。
「仮に極光術が関係しているとして、僕の見立てよりもお前の方が詳しいと思うんだが、どうだ?」
キール側の手掛かりはないということで、素直に意見を求められる。だが、フィブリルは残念ながらセンサーの役割は果たしてくれない。18年ものうのうと暮らしてきて、メルディに触れて初めて自分がフィブリルを持っていることを知ったのだ。シゼルと初めて対峙した時もそうだ。直感がヤバい敵だということは告げてきたが、自分がそれに対抗する潜在能力を持っていることなど考えもしなかった。
リッドの場合は少なくとも猟師としての戦いの勘のほうが往々にして役立つ。もし極光術に関して下調べをするなら、セイファートキーのほうがよほど役に立っただろう。
「って言われてもな、ここに来てから妙な気配は一切ない。逆に、それが恐ろしいくらいだ」
それはファラも同じように感じ取ったらしい。
「うん、ここすごく不思議な感じだよね。ねこにんの里とはまたちょっと違うけど」
ファラが引き合いに出した“ねこにんの里”という言葉に、確かにと頷く。あの里特有のコミカルさはなくとも、一番雰囲気が近いかもしれない。
「…それにメルディも、すごく幸せそうな顔してるよね?」
そう言って、ファラは再度メルディに視線を落とした。こちらが何を言っても反応はないが、ずっと微笑みが絶えない表情のままだ。リッドも最初メルディの顔を見たとき、楽しい夢を見たまま眠っているのかと思ったくらいだった。
「…本人に害がなかったとしても、僕はずっとこんな状態のままのメルディは御免だ」
メルディよりもよっぽどキールのほうが堪えている様子に、リッドは少なからず同情したのだった。
『取り敢えず、何か手掛かりを探そう』
キールの号令をきっかけにおのおの遺跡の各所に散っていく。
『だが、一時間毎にメルディがいるここに戻って来てほしい』
『ああ』
キールが加えた捜索の条件にファラだけが首を傾けた。
『メルディもここに着いたときは、いつもとまったく変わらなかったんだ』
キールがいろいろ遺跡を調べて回っている間に、メルディはクィッキーと一緒に戯れながらこの花畑で踊っていたらしい。だが、ある時急に辺りが静かになった。それを少し不審に思ったキールが調査を中断してやってくると、メルディはお花畑の中に座ったまま動かなくなったという。
『応援で来てもらったお前たちまで何かあったら、まずい。それにリッドはともかく、僕とファラはフィブリルを持っていないんだ。すぐに異変に気付けるように、対策はしておくべきだろう』
キールに半ば説得される形となったが、ファラにはそれが少し不思議でならない。確かに、メルディの様子はいつもと明らかに違っていたが、それは意識がないというよりは、夢心地という表現の方が近いのだ。まるで、おとぎ話に出てくるような眠りから覚めないお姫様のようで、逆にどうしてそんなに怖い顔をして相談しあっているのかが分からない。それこそファラからすれば、フィブリルを持っているリッドのほうが危ないんじゃないかと思うくらいである。
(まぁ、でも大丈夫かな!リッドって肝心な時には強いし)
むしろ、有事じゃないときが怠惰過ぎるのだ。そういう意味で猟師は彼にとって正に天職だろうと、勝手に結論付けて思考を頭の片隅に追いやった。
お花畑を掻き分けながら、入念に辺りを探る。隈無く辺りを探しても、煌々と咲く白い花しか見当たらない。手掛かりを探しているうちに、ファラは自分でも気持ちが軽くなっていくのが分かった。ラシュアンにだってこんなに壮観なお花畑はない。そして、微かに香る花の香り。何かを探そうとすれば探すほど、緊張の糸は見る見るうちに緩んでいく。キールにも警戒するように珍しく釘を刺されたが、魔物もいない状況下でメルディのあの状態を見た後となっては、ここに来る前までのあの緊迫感を維持するのは難しい。訓練は怠っていなくても、リッドのように日常的に戦いに身を置いていない分、ファラの方が不利である。
「ちょっと休憩しよう」
近くに誰もいないのにそう宣言したのは、必死に探している二人に悪いと思ったからだ。チャットだっていつでもバンエルティア号を出せるように外で待機してくれている。少し申し訳なかった。
一面に咲く花には見覚えがあった、毒があるので食べることはできないが、咲いているところを何度か見たことがある。実のように丸い花が可愛らしくて、可愛らしいのに遠くから眺めると綺麗という表現が当てはまる不思議な花だ。
「セレスティアでもこんなに綺麗に咲くものなんだね」
そうやって、白い花弁に触れる。植物特有の感触と香りがして、また一つ心が軽くなったような気がした。
「よし、再開しなくっちゃ!」
立ち上がりながら気合を入れるように、握りこぶしを一つ。すると、よく知った気配が近づいてきて、ファラはそちらを振り返った。
「ファラ、どうだそっち?」
「ううん、全然。一面お花しか咲いてないよ。リッドは何か分かった?」
「いや、こっちも同じだな。だから、充電」
え、充電?
どういう意味かと考えるより早く、リッドに抱きしめられた。
(ち、ちょっと!?リッド!リッドってば、いきなり何するの?)
どこの幼馴染に、充電と言って抱きついてくる幼馴染がいるのだろう?驚いて、必死に抗議するが、リッドにはまったく聞こえていないようだった。
(声が出せない?!)
やっとその事実に気づく。いくら声を張り上げようとしても、その声は喉を通って出ていかないのだ。やりたくはないが、こうなれば実力行使しかない。獅子戦吼でも使って、リッドを吹っ飛ばせば、リッドも自分がしたことに気づいて、素直にファラを解放するだろう。そう思って獅子の気を練る。だが、幾ら頑張っても気は練れなかった。
(うそっ?!なんで体が動かないの!)
気を練るのを諦めて、リッドの抱擁を払いのけようとしてもまるで腕は動かない。蹴り上げようと思う、足でさえ。予想外のことに、ファラは呆然とした。メルディがこういう風になって一切反応できなくなってしまったとするならば、一刻も早くリッドたちに伝えなければならないのに、伝えるための声すら出せないのだ。
(リッド、リッドってば!)
なんとか目の前にいる―いや抱きつかれている相手に事の顛末を伝えようとあがくが、一向に声は出ないし口だって開けない。いよいよ焦りだしたファラに、さらに予想外のことが起こる。
「リッド…」
やっと声が出せたと思ったら、それは自分ではなかった。いや、ファラ自身ではあるのだが、ファラの体を纏った何者かが、普段じゃ絶対リッドに向けないような声で彼の名前を呼んでいるのだ。自分でも恐ろしいほど可愛らしい声。こんな声を出せたことすら今まで知らなかったのだ。そして、それと同様にファラの方からもリッドを抱き返す。一気に体が密着して悲鳴を上げるも、やはりそれは音にはならなかった。
(私なんでこんなことしてるの?!)
リッドもファラの中に入っている何者かも、自分たちが幼馴染であることを完全に忘れている。もう自分じゃないと言い聞かせるしかファラには術がない。だが、体が動かなくても、声が出せなくても、この何者かが声を発せばしゃべるし、何かすればその感触はファラも体感する。疲れた幼馴染に膝枕はぎりぎりセーフでも、もうこれは完全にアウトだ。それに先に膝枕を辞退したのは リッドの方が先だったはずである。肩を借りて眠ったことは何度もあってその心地よさはよく知っていても、リッドに抱きしめられてこんなに心地よいことはファラも知らなかった。リッドとファラの身長さだとファラがリッドに包まるにはちょうどいいのかもしれない。もう思考は完全に脱線していたが、リッドの声で再び我に戻った。
「…ファラ、ファラ!」
「え、リッド?!」
思考が戻った時には、声は完全に出せるようになっていた。いつの間にかリッドはファラを解放していて、怪訝な表情とばっちり視線が混じる。なぜか恥ずかしさが勝ってきて、先に目を逸らしたのはファラだった。
「どうした。何かあったのか?」
リッドの声がいよいよ心配そうな声色に変わる。心配するも何も、先程ファラを動揺させるだけさせたのはリッドの方じゃなかったのか、とファラはリッドを睨めつける。だが、睨めつけているうちにあることに気づく。
「あれ?リッドって片方の腕輪どうしたの?」
リッドがいつも両方の二の腕に着けている金の腕輪のことである。なぜか片方しか着けていない。聞くと、リッドのほうが訝しげにファラを見返す。
「何言ってんだよ。チャットが来る前日に一個壊れただろう。新しいの調達する前に、セレスティアまで来ることになったから、ここ2,3日ずっと片腕しか着けてねぇぞ」
リッドに言われてファラも思い出した。リッドは露出が多い服を好むくせに、防具はしっかりと着けたがるのだ。それだけ軽装なんだからグローブはいらないんじゃないのと言ったファラに、しょうがないだろ猟師なんだから、と返されたことがある。ここまでの道中でも、片腕だけだとなんかしっくりこないんだよなと不満を漏らすリッドに、片腕だけでも全然変じゃないよと言っていたのはファラだった。
(え、でもさっきはリッド両腕に着けてたよね…?)
それは恥ずかしい感情とともに強烈に記憶に残っている。確かにあの時ファラを抱きしめたリッドは両腕に腕輪をしていた。ということは、あれは限りなくリッドに近い、何者かということなのか?
「ファラ、お前なんかおかしいぞ。チャットと一緒にバンエルティア号に戻ってるか?」
「違うよ、あんまり景色がきれいだからちょっとぼーっとしちゃって」
なんで咄嗟にそんな嘘をついたかは自分でも分からなかった。だけど、何かあったその何かを、今リッドに言うにはあまりにも先程の出来事が強烈過ぎた。
「ファラがぼーっとするなんて、ラシュアンの風車が止まっちまうな」
「もう、私だって景色に見とれるくらいあるよ」
おちょくったリッドにそう返すと、再び探るような視線が混じった。
「…本当に、大丈夫なんだな?」
「う、うん!」
繊細に体調を気遣うリッドに、ファラは少し動じる。普段はそれこそリッドの方が適当なのに、こういう時の濃やかさはファラも勝てない時がある。リッドはようやく納得したのか、捜索を再開するべく違う場所に移動していった。
一人取り残されて、やはり伝えるべきだったかと少し後悔する。だが、考えて頭を振った。
やっぱり駄目だ。膝枕も肩を貸すのもぎりぎりセーフでも、あの抱擁だけはやっぱりアウトなのだ。言ったら最後、それこそ今の大事なリッドとの関係が崩壊してしまうような気がして、ファラは何かを堪えるように拳を握った。
リッドはファラと別れた後、足早にこの遺跡の中を移動していた。まだ1時間経つまでは半分近く残っている。キールも手掛かりを探すために、捜索に真っ最中なはずだ。どの辺りにいるのか用心深く探りながら、キールの姿を探す。
ファラは絶対何かを隠している。声をかけた時、普段なら気づくはずが2,3回自分の声が聞こえていなかったに違いないのだ。本当なら、強引にでもバンエルティア号に連れて帰りたいところだったが、ファラがはっきりと大丈夫だという以上リッドが何かを差し挟む余地はない。もし本当に何か危険が迫っているなら、ファラは言ってきてくれるだろう。でも、今回何も言わなかったということは、きっとリッドがそこまで踏み込んではいけないところなのだ。こういう時、幼馴染を上手に盾として使っている自分を恨めしく思う。どこまで突っ込んで、どこで引いたらいいか分かっているからこそ、突っ込めない。ファラがそれを望んでいるのが分かるから尚更だ。
と、キールの姿を発見する前に、生い茂る花に隠れるようにしていくつも並んでいる石碑を見つける
「なんだこれ?」
石碑という割には、いくつも等間隔で並んでいるところを見ると、墓石という表現が近い。どの石碑にも一行ずつ言葉が刻んであるものの、どれもメルニクス語なのでリッドには解読不可能だった。ここにもキールを連れてくるべきだなと早々に諦めて歩き出すと、後ろから声をかけられた。
「セイファートリングを破壊した者よ。ここはお前たちのようなものが来るべき場所ではない」
リッドが聞き間違えるはずもない声、レイスの声だ。
「セイファートの使者さんか。ちょうどよかった、ここがどういう場所か教えてもらおうか?」
振り向きざまに見据えると、姿もまったくレイスそのものの男が立っていたのだった。
少しの間意識が途切れたかと思うと、気づいたらラシュアンの川辺にファラは立っていた。今までずっとあの不思議な遺跡にいたのだ。インフェリアに戻ってきた記憶もない。だから、これが完全に幻であることがファラには分かったのである。
(さぁ、来るなら来い!今度は動揺しないんだから)
威勢よく言い放つもののここは幻の世界なので、先程と同様声は出ない。ついでに言うとまだ見えない敵に向けて放った挑発のポーズもできなかった。どうしてファラがこんな幻を見ているのかは分からないが、敵の目的が何であれファラはいつだって迎え撃つ覚悟はある。それにきっと、窮地に陥ったとしてもリッドが一緒なら絶対に助けてくれるという信頼が、この幻に対してファラの背中を押したのだ。
そして、先程の幻同様、ラシュアンの村の方からリッドがやってくる。川を挟んで、リッドは立ち止まり、お互い見つめ合う形になった。
「リッド…」
先に声を発したのはファラ―ファラの幻だった。
「もうまどろっこしいのは、やめにしないか?」
リッドは声が届くようにいつもより声を大きくするが、その顔はどこか緊張しているようだった。
「俺は何にもいらない。お前ずっと昔っから言ってたよな。世界中を回って、いろんな人を助けたいって。お前が夢を追いかけたくてラシュアンを出るなら、俺も付いてく」
(この場面って…、)
「でも、リッド言ってたじゃない!変わらない生活、何も起きない平穏な日常がいいって。けど、私は無理だよ。何かしたいの、何か行動を起こしたいの。そしたら、リッドには無理だよ、ラシュアンに帰りたいってすぐに思うんだ」
「だから俺、何もいらないって言っただろう。変わらない生活も平穏な日常も全部手放す」
「なんでそんなこと言うの?!散々一緒に話し合ったじゃない。やっぱり私は村を出た方がいいって、リッドも応援してくれるってそう言ってたじゃない!私が出ていくからそんなこと言うの。リッドはラシュアンにいた方が幸せになれる。リッドも自分でそうだって言ったじゃない」
この光景はきっと、メルディが落ちてこなかったらなっていただろう光景だ。メルディが来る前からファラはずっと村を出たいと思っていたのだ。それをリッドがよく思っていないこともなんとなく気づいてた。たぶん、近い未来きっとこんな風に喧嘩したのかもしれない。
いよいよ自分の熱がヒートアップしていくの感じて、ファラは不安げに自分自身を見守る。例え、幻でもリッドと喧嘩別れで村を出ていくところは見たくない。先程の抱擁の方がよっぽどマシだ。
「だからっ!」
先に業を煮やしたのは、意外にもリッドの方だった。脇にあった荷物をかかえると、つかつかと橋を渡ってファラの前まで詰め寄る。
「もう全部捨てた。けど、俺はファラだけは手放せねぇぞ!…意味わかるだろ?」
「やだ、分かんないよ…。リッドはリッドだもん。応援してくれるって言ったのに、なんでこんなこと急に言うの」
幻の自分が驚くほど戸惑っているのが分かる。そして、ファラ自身も。意味が分からないわけじゃない。でも、そのリッドが言っている意味を全部分かりたくないのだ。
「ファラが好きだ」
「……。」
「お前が出てくなら、もう幼馴染じゃない。まどろっこしいのはもう終わりだ」
ほら、そう言ってリッドが手を差し伸べる。
ファラはずっとこの手が取れなかった。いや、幼馴染という箱の中でリッドはずっと手を差し伸べてくれた。それに気づかないふりをして、リッドの手を握り返したのはファラだ。リッドは今でも正面から手を差し伸べようとはしない。そうされたら、今でもちゃんと握り返せるかファラ自身分からないからだ。だから、リッドもあえて手を差し伸べようとしないのかもしれない。そうだ、逃げてる。ファラはずっとリッドから逃げてるのだ。
十年越しにあのことをやっと謝れたのに、完全に瘡蓋になっていないのを理由にファラはずっとリッドに甘えてきて、そして逃げているままだ。
「…この手を取らなかったら、私はリッドを失うんだ?」
手が震える。リッドの手は目の前にあるはずなのに、ひどく遠い。
「手を取れよ。」
いつも適度に距離を開けてファラが望む方向を受け入れるリッドの寛容さはここでは存在しない。ましてや、選ばせることを強いることもなかったのに。
「―リッドは知らないから。知らないから、だからそんなこと言えるんだよ。みんなを殺したのは、私なんだよ。リッドにずっと黙ってた。」
泣く資格もないのに、嗚咽が混じる。
「私が悪いって分かってたのに、黙ってたんだよ。…でも、リッドは優しくて触れないでいてくれたから、私も見ないようにしていただけだよ」
まるでひっかき傷のように、涙がすーっと伝った。
「この手を取らなくたって、ずっと前からリッドを失ってたのは知ったんだよ、私。失ってるのに気付かないように、見ない振りし続けた。だから、」
「俺は全部知ってた。だから、失ってなんかない」
(う、うそ…)
「嘘じゃない。俺に対する罪悪感も全部忘れていいって言ってるんだ。だから、手を取れよ」
いつから知っていたの?どうしてそんなこと言えるの?
そんな疑問は一瞬で吹き飛んだ。
「ファラッ!!」
有無を言わせないリッドの声に、震えながらもなんとかリッドの手に触れる。触れた瞬間、手をしっかり掴まれて引っ張りあげられる。抵抗する間もなく、一瞬にしてリッドの胸に飛び込んだ。充電と言った時の抱擁とはまるで違う。ファラの存在を噛みしめるように強く抱きしめられた。
そっか、ファラはずっとリッドを失っていたと思い込んでいた。あの丘の後、なんとか隣にいることを主張できる存在になったんだと。でも、そう思っていたのはファラだけで、リッドはずっとファラを失っていたとは思っていなかったのかもしれない。
「私、リッドの事ずっと好きでもいいんだ」
なにも言わないことをいいことに、ハンカチ替わりにリッドの肩に顔を押し付ける。
「当たり前だろ」
躊躇のないリッドの優しい声とともに、白い光が上から差した。
「あいつら、遅いな」
1時間を回ろうとしているのに、リッドとファラはまだ戻ってきていない。何かあったのかと、腰を上げたところで、隣から小さく声が聞こえてきた。
「キール…?」
「メルディ!意識が戻ったのか?!」
驚いて近寄ると、メルディは長い眠りから覚めるように、起きだしてきたようだった。無理もないもう3日もそんな状態が続いていたのだ。
「はいな、キールそんなに怖い顔してどうかしたか?」
「どうしたか、じゃない!散々心配したんだぞ。3日間もそこから動かないまま意識がないから!というか、もう大丈夫なのか?」
取り乱し始めるキールに、メルディは訳が分からないというように首を傾ける。
「どうして、そんなことになっているか?メルディがただシゼルと話してただけだよぅ」
「は?」
今度こそメルディの言葉にキールは固まった。
レイスの風貌をした男は、紛れもなく何度か顔を合わせたことのあるセイファートの使者だった。
「俺の仲間たちが今大変なことになっているんだ。ここがどういう場所か説明してもらおうか?」
リッドの質問に頷きもせず、使者は後ろの石碑を指さした。
「そこの石碑は、お前と同じ極光の力を持った者を讃えて作られた石碑だ。ここはそんな極光術師に守られた者たちが、彼らが本来得られるはずだった幸福に回帰するための場所だ」
どうやら極光は関係がありそうだが、リッドには意味がよく分からない。
「セイファートが建てたんじゃないのか?」
「違うな、お前と同じ極光術師たちだ。極光戦争でたくさんの極光術師たちが死んでいった。それを悼み、また戦争に巻き込まれなければ死なずにその者と得られただろう幸せを感じることができるように特別な力で作られた。ここでは、その極光術師たちに会うことができる。だから、ここはお前たちが入る場所ではない。今は忘れられるべき場所だ」
相変わらず、レイスの姿でレイスのように話す使者である。
「なんとなく理由は分かったけどよ、仲間の一人がそこから戻ってこないんだ。俺たちだって、その仲間が元に戻ればすぐにでもここ立ち去るさ」
「ネレイドの影響を持つ者は、もう直に目覚める。それよりも、心配すべきはお前が守るべき少女だろう。お前たちがここで幸福の回帰を願うのを、私たちは望まない」
「!ファラに、ファラに何かあったのか?!」
使者は応えることなく、光を発して去っていった。
「リッドの話を聞く限りだと、もうあの遺跡には足を踏み入れない方がいいかもしれないな」
帰りの道中、3人の話をまとめながらキールがそう結論付けた。
リッドはセイファートの使者に会った後、ファラと合流してからキールのところに行くと、メルディは意識を取り戻していた。一件落着とばかりに、すぐさまバンエルティア号に乗ってあの遺跡を後にした。今はそれぞれ捜索した時の情報を交換し合っている。
「極光戦争についても謎を解明したかったが、あそこにはあれ以上何もないだろう」
「見事にお花だけだったもんね」
ファラが同意すると、石碑もあったけどな、とリッドが付け加える。
「ああ、あの“幸福の帰る場所”って書いてあった石碑のことですか?」
一部始終みんなから話を聞いていたチャットが問いかけると、キールが的確に答える。
「きっと正確には、“本来得られるはずであったであろう幸福が帰る場所”ってことだろうな」
通りでキールが3日あそこにいても何もなかったはずである。そう豪語すると、すかさずリッドがその揚げ足を取った。
「ほぉ、キールはあそこにずっといようが、充分幸せだから幻は見ないってか?」
「ば、バカなこと言うな!そういうお前たちだって、幻を見なかったじゃないか?」
リッドはセイファートの使者から聞いたことはキールたちにも漏らさず伝えたが、あえて触れずに伏せたこともある。最後に言っていたファラのことだ。あの直後、ファラのところに急いで駆け戻ったが、ファラはいつもと変わらずに逆にどこかすっきりしたような顔をさえしていた。
そんなことがあったことは、キールたちに悟られないように、にやにや笑いを浮かべたまま自分に向いた矛先を打ち返す。
「あのな、俺が幻見ちまったら、それこそあの使者に怒られるんだよ。俺は見なくて当然だろ?」
睨みあった俺達にファラが慌てて話題を変える。
「それより、メルディはお母さんと話せたんだよね?」
「はいな、シゼルのこと、メルディのこと、バリルのこと、いろいろ話したよ。全部じゃない、けどメルディもシゼルのこと少し分かった気がする」
「そっか、よかったね」
「けど、残念だな。あそこに咲いていた花、アイメンに持ってが帰りかたかったよ。キールがケチ!」
メルディの言葉にキールは今度こそ狼狽え始めた。
「け、ケチじゃない!あんなことがあった後だぞ。あんな物騒なものを庭に植えられて堪るか!」
まあまあ、と宥めようとしたところに、フォローを入れたのは意外にもチャットだった。
「そうですよ、大変だったんですから。キールさんはあらゆる事態を想定して、ついにはリッドさん達を呼んできてほしい!ですからね。寝る間も惜しんで付き添ったんでしょうし、そこまで言ったら可哀想ですよ」
だか、フォローを入れたものの、少々語り過ぎだったのはチャットも同じだった。
「「チャット…。」」
「ん?僕なにか変なことでも言いましたか?」
メルディも分かっていない訳はないだろうが、キールもそこまで言葉にされたくなかっただろう。案の定、チャットの言葉にキールががっくりと項垂れて、その場はお開きになったのだった。
チャットに無事ミンツまで送り届けてもらって、ようやくリッド達も一息ついた。ラシュアンまで緩い上り坂を登らなくてはならないが、一緒なのはファラだけなのでその辺は全く問題ない。念のため、「ミンツに一泊してから帰るか」と提案したリッドに、「バンエルティア号でゆっくりできたから大丈夫だよ」とファラは返した。
リッドにはどうしても最後にあのセイファートの使者が言っていた言葉が引っ掛かっていた。あの遺跡での、ファラのおかしかったあの様子も含めて。
どうやって話を切り出すか考えているうちに、ラシュアンの微かな明かりが見えてきた。橋を渡ればもうラシュアンに着くというところで、意を決してリッドは口を開く。
「なぁ、ファラ」
「なぁに、リッド?」
立ち止まったリッドに不思議に思ってファラが振り返る。ファラはもう橋を渡り終えていてその川の向こうには目前にラシュアンが迫っていた。
「あの遺跡で幻見たんだろ?」
川を挟んでちょうど向かい側にファラが驚いて立ち止まった。まさかここに来て聞かれるなどと思っていなかったのだろう。その表情が何か答えられるよりも、雄弁に物語っている。
「そっか、幸せだったか?」
レイスの声であの使者は、ファラがあの場所で幻を見ることを望まないと言った。そりゃそうだ、あの場所は本来なら極光術とか関係なく幸せに暮らせた人間が、極光術のせいでいろいろ人生を滅茶苦茶にされたのを悼んで建てられた場所だ。極光術で恩恵こそ受けたリッドたちが、あそこに入るのは確かに間違っている。
「……。―メルディ言ってたよね、バテンカイトスにいるシゼルとずっと話してたって」
ファラはしばらく何かを言いかけようとはしたが、結局リッドの質問には答えられずに問いかけた。
「でも、やっぱりあれは幻なんだよね?対立するはずのセイファートとネレイドだもん。バテンカイトスで普通にメルディが話せるなんてできないよね?」
極光の力―すなわちセイファートの力を使って、ネレイドの領域であるバテンカイトスに向けて通信することは普通に考えてありえない。ネレイドの力を使うならまだ可能かもしれないが。
「まぁ、そうだろうな。キールだってそれは分かっているはずだ」
きっとそれはみんな気づいていて、あえて言わなかったのだ。それはどこかでメルディがシゼルと向き合う機会がほしいと思っていたからだ。セイファートリングを破壊しているあの時、本当だったらメルディが犠牲になるところを変わってくれたあのメルディを大切に想う母親のシゼルと。
「でも、俺は幻だって決めつけなくてもいいと思うぜ」
「?それってどういう意味?」
「セイファートの使者さんだって、幻だとは一言も言ってないんだ。メルディがこのエターニアを滅ぼさないように体を張って頑張ったんだ。少しくらいご褒美くらいもらえたってバチは当たらないだろう?シゼルと本当に話し合えたのかもしれない」
それが事実だったら、メルディはどれだけ救われるだろうか?少なくとも、自分が母親に愛されなかったと思うことはなくなるかもしれない。
「あの遺跡にあったのが、ただの偽りの幻じゃないのかもしれない。
人生を滅茶苦茶にされても、あそこで見たのは大切な人の勇姿だったかもしれない。その姿に出会って、嘆くんじゃなくてまた明日頑張る勇気を持って帰ったかもしれないだろう?」
セイファートの試練を受けて、三者三様のあの経験をしたからこそ、今のリッドはそう思うことができるのだ。
「そっか、そうだね。だから、あそこに咲いている花も凛としているのかな?」
「そうだろ、きっと。…もう、大丈夫みたいだな」
何が?とファラが問いかける。「その顔だよ、顔!」と言ってリッドは笑った。
「なーんか、やけに神妙な顔してるからな。このままだと、ラシュアンの風車が止まっちまう!」
少し遠くにある風車を確認しながらおちょくるが、意外にもファラは乗ってこなかった。訝しげに橋を渡りながらファラに追いつく。
「ねぇ」
「なんだ?」
すっかりファラのところまで来たというのに、ファラは目を合わせようとはしない。何かに思いを馳せるように、夕闇になってきた空を見上げた。
「リッドは、全部捨てても欲しいものってある?」
何だ急に?それは喉のところでどうにか飲み込んだ。きっとあの幻の事と何か関係があるのだろうが、リッドにはちっとも理解できない。
「あるぜ、ほしいもの」
咄嗟の返事はほとんど即答だった。
「いいの、全部だよ?」
「ああ、いいよ。絶対手に入るって条件付きだったらな」
それくらいリッドにとって、それは価値あるものだ。例え全部を引き替えにしたとしても。
どうしてそこにファラが拘るのか分からなかったが、リッドの答えにファラは満足したように微笑んだ。
風にあおられて、白い実のような花が今日も揺れる。
あの地に赴かなくても、幸福が帰るように。
きっと、すぐそばに…。
あとがき:
この小説はあくまで“すずらん”です、と言い張ってみます(笑)
無理くりすずらんを入れてみましたが、どうだったでしょうか?リクエストの内容が、シチュエーションはお任せします、というようなお話だったので、以前ギャグを送りつけている経緯もあり、ミステリー風味のシリアスを目指してみました!
で、これ書いてみたらどっちかっていうと「繋がる想い」の時系列で書いているような気がしなくもないです。ただ、メルニクス文明とか極光戦争の設定については、原作の設定を踏まえた私の完全なる捏造ですので、その辺はご容赦くださいませ。
一点だけ補足。すずらんの花言葉は、「幸福が帰る」です。この花言葉を見た時に、すごく不思議な言い回しだと私は思いました。はてさて、幸福ってそもそも帰ってくるものなのか?と。それと同時に、ファラにもぴったりな言葉だと思いました。
創作意欲を掻き立てる素敵なリクエストをしてくださった遊栄様に捧げます!
リクエストどうもありがとうございました**
また、6周年を祝ってくださる訪問者様にも感謝です!
執筆日:2013年5月19日
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