『ふたつの心』―後編―
「リッド。」
ファラが寝ている部屋を出る通路を歩いていると、意外な人物と出くわした。呼び止められて振り返れば、銀髪の美人教師が書物を抱えながらこちらに向ってくる。
「リフィルか。」
「先ほど、コレットが慌ててファラの様子を見に行ったようだけど、どうやら大丈夫だったみたいね。」
ファラのことで労いの言葉でも掛けられるかと思いきや、コレットをはじめファラのことまで知っている口ぶりに、リッドの中で一つの憶測が確信に変った。
「さっきまでコレットと一緒だったのか?」
「ええ、私達研究者組はアンテナ作りに手一杯だったから、コレット達と一緒に遅い夕食をね。突然あの子が真っ青な顔したと思ったら『ファラの様子を見に行く』ですもの、私も驚いたわ。」
きっとコレットは、リフィル達との食事中にファラの声を聞き分けたのだろう。確かに、あの心優しい少女のことだ、何の脈絡もなくあの声を聞きけば真っ青にもなる。その様が知り合って間もない俺でさえ容易に想像できた。目の前の女教師はあえて言葉にはしないが、コレットの異変に続いて追いかけようとしたロイドやジーニアスをなだめ、こちらに配慮してくれたことも同じ保護者同士、彼女の口ぶりから推測できた。
「悪かったな。」
こちらがこんな謝罪をするとは思っていなかったのだろう、目を瞬くもそれは一瞬のことでいつものポーカーフェイスに戻る。
「あら、謝るのはこちらのほうではなくって?世界のためという大義名分で、私は人を癒す力を持っているにもかかわらず、あなたにとって大事なファラをはじめクロエにも一度も治療を施してはいないわ。」
そう言って不適な笑みを浮かべる彼女は、こちらよりも何枚も上手だ。確かに、リフィルの言うとおりファラがバンエルティア号に戻ってきてからは、リフィルは一度も顔を出したことはなかった。けど、この女性には今最優先してやらなければいけないことがある。先程、彼女も口にしていたアンテナ製作についてだ。船上ギルド―アドリビトムでは今、行方が知れない三人の捜索(残りはアニスだけとなったが)を行う傍ら、精霊界と接触できるようにアンテナ製作も同時に進めている。豊富な知識を持っている彼女の存在は、アンテナ作りには欠かせない人物の一人だ。
もちろんリフィルがそちらを優先することは、捜索して見つかったファラやクロエの望むこと。こちらだってそういう事情は始めから知りえているのに、あえてこの女教師はそれを引き合いに出す。彼女の生徒である楽観的なロイドやコレットとは違い、この女教師は常に人に対して客観的で冷静な態度を崩さない。その様は、進んで誰かと関わりを持とうとしない俺とどこか通ずるものがあった。
「あんたがしていることは当然のことだろ。リフィルがあれを作ってくれているから、ファラも安心してゆっくり休めるし、俺だって好き勝手にあいつの捜索に行くことができるんだ。一応、感謝はしてるんだぜ。」
「…―。」
軽く笑って見せてもこの女性の考えが分かるわけもなく、リフィルは一旦口を閉じると再度言葉を紡いだ。
「…ネガファラことね、話は一応船長から聞いたわ。」
どこか含みを持ったこの女性の言い方に、俺は少し眉根を寄せる。
チャットが捜索を手伝うと言い出した時言われたのだ。学者達から少しは意見を仰いでみたらどうか、と。実際に彼女を見たわけでもないのに当てにはならないと一蹴したキールにめげず、チャットは一通り彼らに話を聞いてみたらしい。しかし、情報不足と前例のない事態に、参考になるような話しは聞けなかったと言っていたが―。何かあるのかと、思案しながら女教師を見やる。
「そう、あなた達は単独でネガファラを捜索しているのよね?船長から話を聞いたときから、私にはずっと気になっていたことがあったの。」
急に、瞳に真剣さを宿したリフィルに、俺も身構える。
「どうしてあなたは、ネガファラを探そうと思うのかしら?」
「どういう意味だ。」
彼女の質問に度肝を抜かれた。キールにだって疑問に思わなかったのに。いや、あいつの場合、ネガファラのことを知らないに過ぎない。キールがネガファラを探そうと思うのは、あいつがいなくなった場合のファラの危険性が予測できないものだと信じているからだ。だから、何か事態が起こる前に対処するのが最善だと判断したのだろう。
「あら、そのままの意味ではなくって?ずっと疑問だったの。本当に実存在するかも分からないものをどうして探そうとするのか?本人もその存在を否定したがっている。なのに、あなたはそれを否定するどころか、探し出して見つける気でさえいるわ。あなたがファラを大切に思っている気持ちは知っている。けれど、あなたの行動はそれ以上に不可解なのよ。まるで、ネガファラが今のファラにとってどんな存在か分かっているみたいだわ。」
リフィルは俺の反応をさらりと受け流すと、こと細かく俺に疑問をぶつけてきた。女教師の鋭い目つきが光る。まるで面白い研究対象を見つけたときのキールのような目だ。知識人の知的意欲に呆れつつも、この女性ときたらどうやら行き着く結論さえ当に予想がついているらしい。目の前の女性が言う通り、普通に考えれば俺の行動は不自然極まりないだろうと思う。けれど、今の俺が知っていることをキールにさえ言う気は毛頭なかった。気だるそうに頭を掻きながら、俺はリフィルに何も知らない態度を貫く。
「俺はキールと違って頭がいいわけじゃない。ネガファラがどんなものなのかもよく分かってねぇんだ、悪いな。」
“もう一人の彼女”について猟師一本でやってきた俺の頭では、学者達の説明云々を聞いても到底理解できるにはいたらない。現実問題、それは本当のことだから。けれど、リフィルに言ったことが正しい半分、リフィルに、―いや、学者達にとってはある意味理解し難い方法で俺は、ネガファラについて知っていることも存在する。
「…そう、あなたがそういうのなら分かったわ。」
俺が知っている情報について話す気がないのを知り、これ以上話しても埒が明かないことを悟ったのか、軽い溜息が聞こえた。呼び止めて悪かったわ、と謝罪して研究室に戻ろうと歩き出すリフィルの背中に俺は問いただす。
「なぁ、リフィル。“ファラ”にも会ったんだろ?」
驚いて思わず振り向いたリフィルの顔が、なによりも証拠だった。
暗い甲板。リフィルが部屋から出ていったのを見たと言っていた“ファラ”はここに立っていた。昼間の眩しいような空色は、海と彼女と同化するように青く暗い。微かに船内から漏れる光だけが甲板を照らす。真っ黒な空間にぽつんとある淡い明かり。彼女の心もそうなのだろうかと、ただ独り佇んで青黒く光る海を眺める少女を伺い見る。ぼんやりと眺めるその様は、紛れもなく元気のないファラそのもので、彼女に―彼女の存在に心を痛めた。
「っ…待たせたな。」
“ファラ”と呼びそうになったの口を慌てて噤む。ファラだけど、ファラじゃない彼女の存在に、素直に彼女の名前を紡ぐことに抵抗があった。
《リッド。》
振り返った彼女の表情に俺は言葉を失った。全身が黒光りしていても分かるほど、彼女は至極嬉しそうな笑みを浮かべたのだ。誰が負の塊などと言ったのだろう?彼女のこんな顔は幼馴染の俺だってなかなか見ることはできない。
《会いたかったの。ずっと、待ってたんだ。》
そう言って自分から俺に近付いてくもう一人の彼女は、俺の前まで来ると口を開いた。
《リッドならちゃんと私のところに来てくれるんだって、信じてたんだよ。》
向けられる笑み、安息の表情。ずいぶんと見てなかったと思うのは、もう一人の彼女が醸し出す錯覚か何かだろう。俺も自然とファラにだけしか向けない優しい眼差しを向けていた。
「俺はずっとお前を探してたんだ。出てきてくれなかったのは、お前のほうじゃねぇか?」
茶化して文句を言って見せれば、ファラはふるふると首を横に振った。だって、と少しむくれた表情を見せるもう一人の彼女。
《私も探しに来てくれていたのには気付いてたよ。でも、みんなと一緒じゃなくて、リッドには一人で来てほしかったの!》
今のファラでは考えられない甘え方に、やはり大きく俺はファラとの違いを感じた。そして、恐る恐るもう一人の彼女の深緑の髪ではない黒艶の髪に触れる。あの時―とはファラから溢れ出した負によって彼女が具現化され、本物のファラを殺そうとしたあの日―、この目の前の少女に、ファラを守るためレーズン火山で自分の刃を彼女の体に突き立てた時と同じように、俺の頭の中に彼女の想いが映像となって流れ込んできた。
『極光術…?―って何??』
きょとんと頭に疑問だらけのまだ少し幼いファラの声が聞こえてくる。初めて聞く言葉に、興味がそそられるのだろう身を乗り出してきた。
『俺だってよく分かんねぇよ。何でも「大切な人を守る力」らしいぜ。村の連中がそんなすごい力が眠ってるんだって言うんだ。』
そう言えば、俺もこんなこと言ってたっけ?今更にまったく興味がない自分の声を思い出す。極光術なんてものを持っているんだと始めて村長に言われた時の事だ。
『いいじゃない、リッド!私もそんな力がほしいな。そしたら、世界中の人のためにその力を使うんだ。』
自分のことのように笑顔を輝かせながら、うっとりしたような声でファラが言う。彼女の言ったその様が、すぐに想像できて思わず噴出す。この少女はやると言ったら、本当に世界すべての人間を助けかねない。
『やめとけ、やめとけ。そんなことしたら俺が止める前にファラがぶっ倒れちまう。それに俺は世界中とかそんな大層なもんに力を使う気なんてねぇーよ。』
大体、そんな力が眠っているなんて言われても、簡単に信じられるほうがどうかしている。それ以前にこの少女は“大切な人”にのみ使える力だということを理解しているのだろうか。分かっていても、世界中が私の大切な人たちだよ、と言いそうで怖いのがファラでもあるが。
『もう!勿体無いなぁ。リッドは剣の腕だって強いのに猟師でいいって言うし。』
羨ましそうに、そしてその返答に不満そうに、ファラが文句を言ってくる。いつもの科白だろうと俺はあっさりと返した。
『そんなの俺の勝手だろ。ま、ファラくらいなら使ってやってもいいぜ。』
大切な人と言われて、頭の中に浮かび上がった人は少ない。それでもこの少女に対する大切さは特別なような気がして、胸を張って言ってやった。
『何よその言い方〜!?いいもん、いつかリッドに負けないくらい私、強くなってやるんだから!!』
俺の思いに気付きもしないファラは、俺に未だ剣の腕に負けていることが悔しいのか、強くなりたいと決意を新たにする。
―そう、これは俺とファラの過去の出来事の一つに過ぎない。
もう一人の彼女、いや、ネガファラに触れると俺は、ファラの記憶が、想いが、映像となって頭の中に流れ込んでくる。
ファラが今でも自分が過去に犯した最大の罪と思っている祠の封印の解放は、俺が子供の間違いだと、事故だったんだと忘れかけてぼんやりとした記憶を、再び真っ赤に、燃えるように赤く、赤く、染め上げた。溶岩に飲まれ溶けてなくなったはずの村の様相は、あの厄災のまま時が止まったように、村人の悲鳴と地震、何もできずにいる俺たちに襲い来る溶岩。俺が忘れていた十年前の記憶を、忘れぬまま当時のまま忠実に記憶として残していた。
次に見えたのは、村や家族・友人を失った村人達の失意、嘆き。ファラを罵倒する声まである。まだ小さいファラは、口を開くこともできずただ…――
《…っど?リッド!》
「ああ、悪ぃ。」
どうやら彼女の頭を撫でたことで、俺はファラの記憶を覗き見ていたらしい。どうしてこんなことができるのか?それは分からない。リフィルが知識という局面からネガファラという存在を知り、その危険を懸念しているのと同じように、俺もこれが極光術という力の成せる技なのかは分からないが、ネガファラに触れることで彼女の存在の一端を見ることができる。推測と言われればそれを否定することはできないが、このネガファラはただの負の塊なんかじゃないと。辛いこと苦しいこと悲しいことを伴った記憶を持つ、紛れもなくファラの一部なのだと、俺は感じている。
だから、ファラがそれを引き離したいと思っても、それをただ見守るわけにはいかない。嬉しそうに笑うファラ、お節介が行き過ぎて空回りするファラ、それでも頑張ろうとして元気を振り絞るファラ、無茶が行き過ぎて元気がなくなるファラさえ、全てが俺には愛おしいんだ。
この問題が片付いたら、改めてファラの全部を受け止めてやりたいから。ファラの想いも全部苦しいことも一つも零さず、彼女を支えてやれる覚悟はあるから。だから、今度は俺が頑張る番だ。
「ネガファラ―いや、お前も“ファラ”なんだもんな。」
“ネガファラ”という言葉に反応して、またも横に首を振った彼女に苦笑して言い直す。ずっと“ファラ”と呼ぶことに抵抗があった。俺が愛するのは、お節介で無鉄砲でそれでも最後には自分の抱えている負と向き合って一緒に歩いていける奴だと信じているから。だから、こんな姿の彼女を見ていることには心が痛んだ。
「ファラ、戻ってこいよ。」
どうかこのままファラの中に、溶け込んでいってほしい。
言葉数は少ないが、ピクリと反応する彼女に意味は伝わったようだ。あえて本物のファラの存在に反するように、一人行動する彼女の存在。簡単に聞き入れがたいことだと分かっていても、そう諭すしか俺にはできない。
《嫌だよ。リッド、私戻りたくない。》
船内から漏れる光に照らされて赤い瞳が、強くここにいたいと訴えてくる。ファラの手が俺の背中に触れて、まるで縋るように抱きしめてきた。震える手がさらに訴える。ファラの元に還ることが怖い、そして嫌だ、と。
「ファラ…。」
戸惑いの気持ちはあったものの、ファラを抱きしめ返す。けれど、彼女の存在自体があの時と比べて弱くなっているのか、感触はあるものの彼女を透かして抱きしめる自分の手がうっすらと見えた。
「どうして…、どうしてファラは戻りたくないんだ?」
そう問う俺に、ファラは抱きしめたまま一度俺の顔を見つめて、さらに抱きしめる力を強くした。まるでこのまま消えるのを恐れるように。ファラは俺の胸に顔を埋めたまま口を開いた。
《す…―よ、リッド。》
「………!」
一瞬、時が動くことを忘れた。くぐもったファラの声は、彼女が殊更消えてしまえそうな声で言葉を紡いだことによって、はっきりとはこの耳に届かない。けど、体全体で伝わってくるファラの鼓動が、言葉を発したあとにはっとしたように伝わっている緊張感が、確実に彼女の言ったことを補って俺に伝えてくる。完全に聞こえたわけでない。けど、何を言われたのか、ほぼ確信めくファラの言葉に俺は柄にもなく動揺した。だからかもしれない、俺は完全に油断していた。
「それ以上、―…リッドに、リッドに近付かないで!!はぁ――――!掌底破!!」
「うぉっ!!?」
抱き合っていた二人に、手加減されたとは到底思えない掌底が叩き込まれる。持ち前の反射神経で、ネガファラごとバックステップを利用してなんとか攻撃を避けも、問題の攻撃された部分はというと僅かにへこんでいて、あとで船長が泣きを見るのは間違いなかった。
「ファラ!?」
本物のファラは油断なくネガファラを見据えて、再び構えを取る。俺に体ごと引っ張られて、攻撃から逃れられたネガファラも俺から距離を置いて臨戦態勢を取った。思わず俺はもう一人の人物を探した。こんなことにならないために、コレットにファラを託したというのに。
「コレットさんなら、今ディセンダーさんを呼んできてもらっています。」
お淑やかでありながら、しかしはっきりとした声に、俺は船内の入り口を見る。逆光に照らされて金髪のロングヘアーが輝くも、それはコレットとは違う人物のものだった。
「ミント、どうしてお前が?」
どうしてここにいるのか分からないという問いは、何故か珍しく怒っている女性の返答で理解できた。
「リッドさんひどいです!!あなたはファラさんのために一生懸命働いていらっしゃったんじゃなかったんですか?!それなのに、その期待を裏切って別の方と抱き合っているなんてっ!同じ女性として今回ばかりは許せません。」
どうやら今までのネガファラとの密会を見ていたミントが、あらぬ誤解をしたらしいことだけは分かった。普段から心優しく、怒った表情なんて見たことがなかった女性が怒るものだから、逆に怖い。こっちの説得はこの女性の彼氏に後で任せるとしても、今はなんとしても船上での戦闘は避けたかった。
「だからって、ここは船上だぞ!ファラが二人も暴れたらただじゃすまない。ミントもここは二人を止めてくれ!!」
「それなら、リッドさん大丈夫ですよ。」
にっこり笑った彼女に、安堵したのは一瞬のこと。
「大惨事になる前に、ディセンダーさんが止めてくださいます。私はファラさんの味方です!―母なる大地よ、―…シャープネス!!」
と、彼女はすでに詠唱を完了させてファラに支援する始末だ。ミントなら止めてくれると思った俺がバカだったらしい。恋愛が絡んだミントはクレスでも止められないということは、後日彼から話を聞くことになる。
この場で冷静に戦いを収める者がいないこと知った俺は、再び二人に目を向ける。言うまでもなく、戦いは始まっていた。
今のネガファラに戦う力が残っているわけがない。それはあの時、俺とキールとディセンダーで戦ったことで彼女の体力はほとんど底をついているからだ。それに、ファラが負に向き合えたことで、彼女の存在が弱まっている。本来なら彼女はもうすぐファラに溶け込むことができるはずだった。これで戦いに破れれば、存在ごと消滅してしまうことにもなりかねない。
《連牙弾!!》
「まだまだぁー、獅子戦吼!」
「やめろー!―――――くっ!!?」
ネガファラの拳の連撃に臆することなく、ファラは闘気でそれさえもやすやすと弾き飛ばす。実力の差は歴然としていた。技の硬直状態で避けることもできず真正面から技を浴びそうになるネガファラを突き飛ばせば、俺がその餌食になった。思い切り肩から甲板に体を叩きつけられる。ただでさえ、普段から鍛えているファラがミントのシャープネスによって身体能力を引き上げられれば、その威力は俺にも堪ったものではない。
「リッド!?邪魔しないで!」
俺が割って入ったのに、ファラは驚くも構えを解こうとはしない。突き飛ばしたネガファラをちらりと横目で見れば、満身創痍で確実に次の一撃が止めになるのは明白だった。
「―…ファラ、やめろ。」
左肩を強く打ち付けたらしく鋭い痛みを伴ったが、この際どうでもよかった。立ち上がるとネガファラをかばうように、ファラと対峙した。
「退いてよ、リッド!リッドのことは傷つけたくないの!!」
ファラの声はほとんど悲鳴に近かった。どうしてもこの戦いをやめるつもりはないらしい。でも、俺だって譲れない。数分前の、あのネガファラの様子が頭に焼き付いてはなれない。このまま彼女が消滅してしまっていい訳がない。あれはファラの心の一部なのだと分かるから尚更だ。
「ファラも、逃げるな!…今は逃げちゃいけないんだ。」
少し低くなった声で、対峙するファラに訴える。びくっと一瞬ファラは怯むも、それでも拳を強く握り返した。
「私は逃げてなんかない!!あの子が近くにいると私は弱くなるの、リッドには分からない!自分でも分からない気持ちが押し寄せて、私を分からなくしちゃうんだっ…。」
くしゃくしゃにファラの顔が歪む、それでも攻撃をやめるどころか技を繰り出す構えになる。俺もそんなファラに心が鷲掴みにされたように痛かったが、剣を鞘から引き抜くとファラへと構えた。
「どうしてもってんなら仕方ねぇ。受けて立つぜ、ファラ。」
その展開に真っ青になったのは、それまで傍観者だったミントだ。事の成り行きを見守り、ディセンダーの到着を待っていた彼女は、俺が戦闘を仕掛けかねないのを見て声を上げる。
「待ってください、リッドさん!クレスさんも言っていました。ファラさんのことが大事だから、たとえ稽古でも傷つけたくないって!!それなのに、どうしてっ…!」
けれど、時すでに遅し。ファラの闘気はすでに高まり、止められない状態だった。
「リッドのばかっ!!はああぁぁぁぁぁぁぁー、殺劇ぃ―――舞荒拳―――!!!」
がっかんかんどごっばきぱきばきかんかんどぉーんガッシャ―――んめらめらどぉごーん!!
どうやらファラは立ち塞がる俺を攻撃に巻き込みつつ、ネガファラに止めを刺す気でいたらしい。次々と繰り出される拳と脚技に俺は何とか一つ一つの衝撃を剣で受け流して相殺していく。俺も応戦すれば、後ろに控えるネガファラだってもっと簡単に守れたかもしれない。それでも、俺が守りたいのは“ファラ”だったから、ファラのことも傷つけるわけにはいかなかった。ネガファラも俺が必死に盾になっていることに気付いたのか、守りやすく俺の後ろに引き下がる。最後の炎も何とかネガファラから遠ざけて見せた俺は、再びファラと向き合った。
「ファラ…。」
「どうして?どうしてそこまでして、その子を守ろうとするの?!」
分からないよ、とファラは呟いた。ネガファラからファラの攻撃を防いだのはもちろんだが、ファラもリッドによって傷一つ負っていない。反対にリッドはネガファラを守るために、彼女の奥義―殺劇舞荒拳をその身一人で防いだものだから所々傷だらけだ。体を張って守ってくれるリッドの姿にファラの心は揺れる。
「ファラを、あー、なんだファラもネガファラも守りたいんだ。どっちともな。」
二人のことを一緒くたにまとめそうになって、慌てて言い換えるとファラは小さく笑った。俺の行動に呆れたのか、はたまた少し暴れてすっきりしたのか、その顔には徐々にファラの明るさが戻っていた。そして、もう一人の彼女に向き直る。あとはネガファラを説得するだけだ。
「だから、あんたにも幸せになってほしい。戻ってくれないか?」
そう尋ねて、やっとネガファラは泣きそうな顔で本音を口にした。
《リッドがかばってくれて嬉しかった。私も、―…私だって本当はずっと戻りたかったの。けど…、》
そう言ってファラを見やるネガファラ。どうやらファラの中でまだ大きな葛藤があるらしい。それが解決できないからこそネガファラは一人、ファラとは別の存在といて今もいるのだろう。ファラもそれが何か分かっているのだろう。俯いたまま少し考え込むと、俺に向って口を開く。
「ねぇ、リッド。」
「なんだ?」
問い返した俺に、ファラが息を呑むことが分かった。それでも、ファラは「負」なんて越えていける奴だから、そう信じてファラの言葉を待つ。
「私、…私また弱くなっちゃうかもしれない。リッドが応援してくれても、全然頑張れないかもしれない。また、…―リッドに甘えちゃうかもしれない。」
ああ、とネガファラではないファラが吐く弱音に頷いた。
まるで、ネガファラに触れたときのような感覚だと思った。実際に頭に記憶が流れ込むわけではないが、それでもファラの悲しみが、涙に濡れる表情が、震える声が、確実に俺にそれを伝えてきた。
「…―それでもいいのかな?リッドに頼っちゃっても…いいのかな。」
今までそうやって自分の幸せを後回しにして生きていたからだろう。だからこういう時、誰かに頼ることを素直に認められないのかもしれない。それでも、俺はそんなファラさえ好きだから。俺は彼女に当たり前だと笑いかけると、口を開いた。
「言ったろ?俺は“ファラ”を守りたいって。ファラの弱いとこも全部、俺にとっては魅力なんだからな。」
あいつを支えてやりたい、こんな言葉はファラへの想いの一部でしかないけれど。今度こそ絶対、「負」という形でファラの心が歪んだりしないようにしてやりたいから。
「うん、ありがとう。リッド!」
顔に涙の雫がついていても、今のファラの笑顔は綺麗だった。ファラはようやく意を決したのだろう。自分からネガファラに近付くと頭を下げた。
「ごめんね。私ずっとあなたを受け入れられなかった。ずっと自分の中にある罪を言い訳にしてた。言うのが怖かったんだよね。」
《忘れられなかった罪を思うと、いつこの気持ちがどういう形であれ、裏切られるのか怖かった。でも、言えない事のほうが、ずっと辛かったんだよ。ずっとこの気持ちと罪のせめぎ合い。捨てたくても募るばかりだった。》
「うん、そうだね。どんどん自分が弱くなっていくようで、そんな自分も嫌だったの。でも、決めたんだ。今度は私が失わないように頑張る番だから!私が守るんだから。」
うん、イケるイケる、とファラがネガファラを励ます。それでもこの二人の会話が何を指すのか、やはりリッドには分からなかった。うすらうすらと、徐々にネガファラがその姿を消し始める。もともと夜も遅い真っ暗な甲板、彼女は空に溶けるように、ファラの中に溶けていく。
《伝えてね、今度は私が守れるように…》
その言葉を最後にネガファラは、今度こそこの世界から姿を消したのだった。
ファラに元気が戻ったと言っても、リッド達にとって長く平穏は続かなかった。あの後、なぜかその場をいつの間にか立ち去っていたミント、そして何も知らないディセンダーやコレットの面子が到着するとそこは、爆弾でも爆破させたような甲板の破損に驚くのだった。夜が明けて空が明るくなり始めるにつれ、事はさらに大きくなる。船長は愛する船の傷ついた姿にショックで気を失い、それがファラの仕業だと知るや否や男性陣からは恐怖の目で見られる。女性陣からはどうやって今回のことを解決したのか、根も葉もない噂が飛び交い尾ひれがつく始末。学者達―とは言ってもあのハロルドだけではあるが、「負」についてもっと解明できると、話を根掘り葉掘り聞きだそうとするわ、ファラを解剖させろと言って追い掛け回されるという事態まで発展した。
まぁ、甲板があそこまで傷つき焦げたのは、ミントのシャープネスで強化された殺劇舞荒拳の威力の所為ではあるのだが。唯一の救いが、あそこでリッドが一つも技を放たなかったところだろうか。そんなこんなで深く傷つき意気消沈したチャットに、甲板の完全修復を誓ったファラは、今日もリッドと共に修復材料採取へとダンジョンに向うのだった。
「ちぇっ、やっぱり結局こうなるんじゃねぇか。」
余計な厄介事が山のように発生する事態に、さすがのリッドも辟易し不満を漏らす。後始末が板についているリッドも、あのハロルドには相当な手を焼く羽目になったのだ。ファラがこうして以前のように心から元気になったことは嬉しい。すごく嬉しいが、こうまで周りから騒がれるのはいささか、いや正直かなり勘弁してほしい。それでも、隣を歩くファラはなんだかすごく楽しそうだ。にこにこと心から笑っているファラを見ていると、いつしか不満も薄れていく。本当に不思議だとファラの顔をまじまじと見た。
「どうしたの?リッド。」
視線に気付いたのか首を傾けるファラに、何でもないと言ってふいと視線を逸らした。そう?とあまり気に留めなかった彼女は、手にガッツポーズを作るとさっきまで体全体で表現していた気持ちを言葉に出して宣言する。
「よーし、チャットもびっくりして喜ぶような、以前よりぴかぴかの甲板に向けて頑張ろうー!!」
イケるイケる、と声を上げるファラ、またも暴走しでかさない勢いにリッドは肩を竦めた。でも、これくらい跳ねっ返りが過ぎるのは、ファラにも俺にもちょうどいいと思えてしまうのは、少し重症かもしれない。
それよりも、と昨日の名残も何もない会話にリッドは少し不満げに口を開く。
「結局、ネガファラと何を話してたんだよ?」
散々こちらを振り回しておきながら、ファラはこの話題については未だ話してくれなかった。俺達の間で“ネガファラ”の話題をなかったことになんてできるはずもなかった。なんたって、ファラが来る前のあの時、俺はあいつにとんでもないことを言われた気がする。声も小さかったし、今でも思い違いだと、夢なのかもしれないと思うけど、それでも聞かないわけにはいかなかった。
「ねぇ、リッド?」
ファラが歩みを止めた。それに従うように、俺も足を止める。ファラは背を向けたまま俺に問いかけた。
「昨日、ネガファラが言ったこと覚えてる?」
「ああ。」
短い肯定。すぐに沈黙が辺りを支配した。と、風がさっと沈黙を吹き払うように、俺達に吹き付ける。ファラの髪が風になびいて、普段は髪に隠れて見えない首筋を、耳を、外に晒した。
「フ、ァラ…?」
「な、何、リッド?」
呆けるように彼女の名前を紡げば、ファラは少し吃って返事を返す。こっちもその反応に照れて、思わず頭を掻いた。一瞬見えたファラの耳は、かつて見たことないほど真っ赤で…、それはつまり期待していいってことなんだよな?
「あ、あのね…ってえ、え?!」
とようやく話し出そうと勇気を振り絞ったファラは、リッドに抱きしめられることで遮られることになる。
「昨日は、ファラからしてくれたよな?」
そうやって笑ってファラの顔を上から覗き見れば、顔を真っ赤に染め上げて何も言えなくなってしまったファラの顔があった。やっぱり、ネガファラだった時の記憶もすっかりとファラの中にはあるらしい。あの時間二つの記憶が同時に彼女の中にあるというのも変な話だが、それでも、ネガファラが彼女の一部であることだけは間違いがないらしい。
顔を赤くしたまま、それでも俺に後ろから抱かれたままのその手を振り解こうとしないことに満足した俺は、入念に周囲を確認する。耳を研ぎ澄ましても、辺りに魔物気配が遠いことも確認した俺は、ファラの耳元で囁く。
「一度しか言わねぇぞ?」
十数年、ファラへの想いはずっとこの中にある。見返りなんて期待することも叶わないと思っていた。ただこの想いはファラを見守るためだけにあると、何年も自分に言い聞かせていたから。
「ファラが好きだ。」
幼馴染じゃない、たった一人の女として俺はファラを愛している。それは大分前から自覚していた。けど、ファラが求めないなら、と言葉にも出す気はなかった。昨日のもう一人のファラから発せられたあの言葉が、この目の前のファラの態度から、言っていいんだと確信が持てるまでは。
“ファラが好きだ”
やけにはっきりと心まで響くリッドの声。
やっとひとつになった心。思い出す、二重になった記憶が自然とひとつに繋がった。もうひとりの、ううん―私が求めていたのはずっとこの言葉だったんだ。黒い塊の私が、眼前に現れるまでそんなことも忘れて、心のどこかに何とか誤魔化して置き去りにしていたことに気づいた。そうやって気づいたときには遅かった。それを受け入れる場所も安心できる今の場所を手放す勇気もなくって、何度もそれを捨てようとしたけど、リッドがそれを拾ってくれた。こんな弱い私でも受け入れてくれるんだって、やっと私も、私も前に進もうと思ったの。
だから、後ろから抱きしめられた腕を解いて、正面からリッドの顔を見た。らしくもない真剣な目つきのリッドになんだか照れてしまって、緊張を抑えるように両手でリッドの腕を掴めば胸に広がる安堵の気持ち。
「《私も、…リッドが好きだよ。》」
ふたつ分、少し大きな声でいつものように明るくこの大きな気持ちをぶつけたら、リッドの顔は珍しく真っ赤になっていた。リッドのそんな表情がなんだかおかしくて笑いをこらえながら、リッドの腕を掴んでいた手をむき出しの肩の上にまで移動する。きょとんと私の行動の意味を分かっていないリッドの瞳と視線がかち合った。少し微笑んで、私より少しごつごつしていそうなほっぺに唇を寄せた。
「よっよーし!ちゃんとしたごほうびは、バンエルティア号の修復材料見つけてからだよ。リッド、完全修復目指して頑張ろうね。うん、イケるイケる!!」
一瞬掠めた唇も何事もなかったかのように、体ごとリッドから離れれば、ぐるんとダンジョンの方のに向き直り照れ隠しにひとつ気合を入れなおす。思わず顔ごとリッドから背けてしまいながら。
「……な!??」
一瞬硬直したリッドは、ファラの言葉の意味を理解すると、かつての彼にはあり得ないほど途端にギルドの仕事を熱心に働き始めた。
この後、ファラの言ったごほうびをリッドがもらえたとかもらえないとか。
真実は二人の心の中にのみ。