『愛の言葉』―守りの続編
愛し合っている者同士、なぜそれを言葉にしなければならないのだろう?
言葉という伝達手段は簡単であるが、それは時に煩わしいものでもある。
インフェリアの海は太陽の光を反射させて、セレスティアよりもずっと深く青かった。故郷の海は、見ているだけで先ほどまでの慌てた気持ちを和らげてくれるものだとしみじみ感じる。
客観的ものの見方は、人間が生活を営む上で大切なものの考え方であるが、それは個人的価値観に左右される場合が大きい。だから、誤解を生みやすいという盲点にみんな気づかないんだ。ミンツの同僚も教授も、道具屋の亭主、道を聞いてきた通りすがり、船の船員、乗客など…。みんなその事実に気づかず、誤解されたほうの立場になって考えもしない。だから、
「キール?そんなに新婚さんに間違われたの恥ずかしいか?」
静かにそのような感傷に浸っている時間は、そう長くは続いてはくれないらしい。僕は思いっきりむせ返った。自分が考えていたことを寸分違わず指摘されればそうなるし、今は部屋でくつろいでいるはずの彼女がいきなり何の前触れもなく視界に入ってくれば無理もないはずだ。でも、僕にも意地がある。メルディの言うことは確かに僕の考えていることに的を得てはいるが、素直に頷くには抵抗があった。
「ち、違う!確かに僕達はそ、その…ような関係ではあるが、契約を結んだのと結んでいないのは大きな差がある。その誤解を安易に受けたくないだけだ!!」
顔が火照っているのが自分でも分かる、あぁ情けない。こんな顔で言っては説得力もないに等しいだろう。メルディにもそれは分かっているらしく、僕が怒鳴りながら言っても、にこにことしている。そんな彼女がかわいいと不謹慎なことを考えつつも、今の環境があまりいいことではないという結論に思い当たると顔を引き締めた。
「大体、お前は何でここにいるんだ?船室でゆっくりしてるはずじゃなかったのか?」
そう、僕達は今、ラシュアンを出て各町を回ってる最中だ。ミンツにいる両親や友人など久しぶりの挨拶を交わして、早々にミンツを出て今は王都インフェリアに向かう船の中だ。メルディがミンツは僕の故郷でもあるから、もっとゆっくりしていこうと言ったのだが、僕はそれほど長く滞在する気にはなれなかったのだ。僕は改めて、世の中は上手くいかないものだと思い知らされた。セレスティアではもう立派な夫婦扱いを受け、インフェリアにいる友人達なら分かってくるものだと思ってこっちの世界に来てみたのに。リッドには再会して初めの一言が「お暑いねぇ」とからかわれるし、ミンツの友人達と会えば「お前が結婚するのは最後だと思っていたよ」とありがたくもない祝福の言葉を受ける。両親に至っては、隣にいるメルディの姿を認めるなり「キールがセレスティア人の娘を連れてくるなんて…」と母親が泣き出し、父親には「親不孝者!!」と怒鳴られる始末だ。まだそうではないと、訂正するのに3時間、メルディを始めセレスティア人を弁明するのに2時間半。とてもじゃないが、故郷を楽しめる気分になんてなりやしない。唯一の救いは、メルディがそれでも終始機嫌が良かったことだ。どうやら、僕の友人達に紹介してもらえたことがよほど嬉しいのだろう。だが、ラシュアンを出てから彼女の様子が、少しいつもと違うところがある。僕の杞憂で終わってくればありがたいのだが。
先ほどの質問をメルディに僕が述べたのは、以下の経緯があった。僕達が船室で外の景色を眺めていると、ドアがノックされた音が聞こえてきた。メルディは戸惑いなくドアを開けると、それは船内で道具を売っている商人で、彼は戸惑いなくこう言ったのだ。
「おや、お客さんたち新婚さんかい?新婚旅行で船旅は楽しいだろう。」
本日15人目の見知らぬ人間にまでそう断言されて、僕は恥ずかしさが頂点に達し、
「僕は甲板で潮風に当たってくる!メルディ必要なものがあったら買っといてくれ!!」
半ば逃げ出すように甲板にやってきたのだった。そして、今に至ったわけだ。
僕の質問にメルディはどう答えるか迷っているようだった。どうやら特に用があるわけではないらしい。
「理由がないとキールが傍いちゃいけないか?」
心臓がひっくり返るかと思った。本日一番心臓に悪い言葉はこれで決まりだ。せっかく火照っていた顔から熱が引いたと思ったのに、また火照り始める。涼しい潮風もこの高揚している気持ちの前では効かないらしい。メルディは俯いたまま僕の返答を待っているようだった。どうやら誤魔化しは利かないらしい。僕は恥ずかしい気持ちを懸命に押し殺しながら、答えた。
「…僕はそ、そんなこと一言も言った覚えはない。」
こう言うのが僕の精一杯だ。それでもメルディには十分伝わったのか、再び愛らしい笑顔を浮かべた。
「それじゃあ、メルディがずっとずぅ――とキールが傍いてもいいか?」
真剣に顔を近づけて確認してくるメルディがかわいくて、照れながら目を逸らす。どうやらこの目の前の少女には、自分は敵わないらしい。
「す、好きにすればいいさ。」
やっぱりこう言うのが限界で、そんな自分を情けなく思う。知識はこの一年さらに増し加えられた。だけど、こういうときに何を言ってやるのがいいのか分からない。恋愛の知識は僕には皆無だった。そして、今日みたいにこういう場にいるときの恥ずかしい気持ちは何年経とうが相変わらずで、返答する言葉もそっけなく変わらないままだ。本当、言葉ほどこういう時に厄介なものはない。そんな言葉でもメルディは僕の気持ちを理解してくれたのか、彼女はワイール!と顔を綻ばせながら、
「キール、メルディとずぅ――と一緒な♪」
そう言って、クィッキーと一緒に元気良く飛び跳ねる。
あれ?おかしい…。
僕はすぐに違和感を覚える。メルディが僕の意地の張った言葉を理解してくれると同じように、僕もメルディの行動原理をある程度は把握しているつもりだ。その証拠に無意識な体の反射的行動がそれを証明している。僕は無意識に抱きとめようとした手を静かに下ろした。こういう時のいつもの彼女だったら、必ず抱きついてくるのだ。僕はやっとラシュアンからの彼女の異変がなんだったのか理解した。そう、彼女はラシュアンを出てから自ら抱きついてくることはしなくなった。言動は相変わらずこちらにとって恥ずかしいことを言ってくるものだったから気づかなかったが。友人や両親の前で不用意に抱きつかれないことはありがたい。しかし、それがあまりにも習慣に等しくなってしまったせいで、その事実に気づいた途端なんだか物足りなさを感じた。メルディの温もりが恋しくなってしまって落ち着かない自分に重症だとは思いながらも、自らがそんな行動ができるはずもなく、キールは意識を自分の周りに切り替えた。甲板という誰の目にも触れる場所にいつまでも二人でいては、また何を囁かれるか分かったものではない。メルディ、と未だ飛び跳ねている彼女の名前を呼んで、部屋に戻ろうと彼女を促した。
「ファラ。」
そう一言彼女の名を呼べば、ファラが驚いたようにこっちを見るなんて事は、今の目を瞑っている状態だって分かる。長年一緒いるせいか、浅い眠りの時でも彼女が側に来るとすぐに分かった。それを前にチャットに話したら、呆れたように「愛の力」ですねって言われたっけ。目を開けたら、気配通り逆さまの彼女の顔と目が合った。彼女は不思議そうに俺に問いかける。
「あれ?寝てたと思ったのに、いつから起きてたの?」
「寝てたぜ?でも、お前が側に来て俺の顔覗く頃には起きてた。」
あっけらかんとそう言った俺の言葉にファラは不満そうだった。
「だったら、始めからそう言ってよ!起こすのもかわいそうだと思って、そっとしておいてあげたんだから。」
そう、抗議の声を上げる。俺は悪ぃ悪ぃ、と謝ると、ファラは少しムッとしたように隣に腰を下ろした。
キールたちがラシュアンを発ってから、今日でもう3日目になる。お互いの仕事の休憩時間に、見晴台に来て一緒に過ごすことはかなり前から二人の日課になっていた。しばらく押し黙って俺と同じように空を眺めていたファラが口を開く。
「メルディ、キールと上手くいってるかな…。」
一年前、セレスティアにキールが住むことが分かってから、それはファラの口癖になった。でも、とリッドはそれがいつもと違うことに気づく。メルディがキールと上手くいく…?
「どうした?」
そう問いかけると、ファラは弾かれたように俺を見た。その瞳はなんでわかったの?と驚きが混じっている。俺が優しく笑って先を促すと、ファラはそれに従った。
「私、そういえば言ってなかったね?実はメルディが―…」
そう言って、ファラは4日前の夜のことを俺に話してくれた。
「なぁ、キール?どうして二人愛し合ってるのに、リッドもファラも好き言わないか?」
部屋に戻ってから、少し経ってメルディがそう切り出した。彼女はいつも突拍子もないことを唐突に言ってくるものだから、聞いている側はいつもびっくりさせられる。思い出したように呟いた疑問の声は、いつもより暗い。それを宥めるように僕は口を開いた。
「僕もこの間の夜リッドから話を聞いた。結局、あの二人のことは、周りが何か言って解決する問題じゃない。」
でも、とそれでもメルディは引き下がらない。よっぽど、あの二人のことが納得できないのだろう。
「愛し合うは、気持ち伝え合うこと同じよ。でも、考えてるだけじゃそれは伝わらないな。だから、みんな言葉にして伝えるよ。それで改めて知る、感じる、愛してもらっていることも自分も愛していることも。」
聞いていて恥ずかしいことはこの際後回しだ。でも、この言葉を聞いて、メルディの考えが分かった気がした。だから、こいつはわざわざ聞いていて恥ずかしい台詞を毎日のように僕に言うんだ。言わなければ、伝わってないとそう信じて。急にメルディを抱きしめたくなった。こいつがいつも抱きついてきたのは、言葉だけじゃ足りないと思ってやってきたことなのだろうか?そう考えたら無性に切なくなる。人前で抱きつかれていたことを嫌がっていた自分に、罵声を浴びせたくなった。そうじゃない、僕はメルディ、おまえを愛してる!そう、心の中で叫んだってメルディには伝わらないことは分かってる、それでも叫ばずにはいられなかった。今の自分がそれを言うのも、実行するのもできないからだ。恥ずかしい、度胸がない、そういうのを理由にして伝える努力を怠ってきた。いや、僕は慢心していたんだ。メルディにならこの気持ちが伝わってるんだと、自分を過信しすぎてたんだ。今はそんな自分を僕は恥じることしかできず、情けなく思う。
そんな心情をもちろん知るすべのないメルディはこう続けた。
「だから、メルディ不思議思うよ。なんで伝え合わないのに、ファラもリッドもそれで満足してられるのか?幸せ言えるか??メルディには分からないな。」
その答えを僕は知っていた。いや、たぶん客観的立場だから、分かるのだろう。メルディに対する自分の落ち度を悔いる心を隠して、平静を装いながら自分の考えていたことを言った。
「僕が思うに、あいつら、リッドとファラはお互いが愛し合い、愛を求め合うのが必然的な関係だ。」
「どういうことか?」
僕の言っていることが分からないのか、メルディは問い返してきた。
「つまり、リッドには身寄りがない。ファラにはおばさんがいるが、それでも僕がいた頃は離れて暮らしていたんだ。だったら一番頼りにするのは、それまで一番近くにいてより理解してくれるリッドでもおかしくないだろう。独りになってしまったリッドはファラに自分の存在意義を見出し、ファラも最も自分を支えてくれるリッドに、お互いに依存し合っているんだ。お互いがお互いを心の拠り所にしている。そうすれば、相手が愛してくれるのは当然のものだし、自分が相手を愛するのは普通のことだと思う。10年以上もそんな関係を維持し続ければどうなると思う?」
「…どうなるか?」
僕の長い説明にもメルディが聞き入ってくれたことに安心して続ける。
「お互いが愛し合うのが当たり前になる。だから、その愛情がどんなものかなんて当人達には関係なくなるんだ。ただ、愛し合っていればいい、それだけしか意味を成さなくなるんだ。すなわち、愛情表現の境が曖昧になる。」
分からないというように、メルディが首を傾げた。
「だったら、なんで好き言わないか?」
「最後まで僕の話を聞いてくれ。さっき言った通り、リッドとファラはお互いに依存している関係だ。唯一、愛を受けられるのが当然の関係だからな。だったら、無意識的にそれを壊さないようにする力が働くはずだ。『幼馴染』という名称は実に使い勝手がいい。『友人』と言えば男女で仲が良すぎると周りから疑われるが、『幼馴染』と言えばそれだけで周りが勝手に解釈してくれる。それで周りに自分たちのことを干渉される心配もない。あとは、自分達がお互いの関係を崩すような真似さえしなければ、ある程度この甘んじた関係は継続できる。そして、関係を崩すという真似は、関係を進展させ得る全ての行動・言動を指す。だから、無意識に一線を引いて、行動に移さない。この関係に満足しているからこそ、いや、違うな。この依存関係から抜け出せないからこそ、自分に満足としていると言い聞かせて先に進まないだけだ。」
一旦ここで言葉を切る。僕でも長々と話すのは好きではあるが、疲れるのだ。メルディを見ると、彼女は引き続き真剣に聞いてくれているようでほっとした。一息ついてから僕は再び話し始めた。
「今述べた理由は、リッドには当てはまらないだろう。リッドがもし未だにファラに依存して生きていると言うならば、あいつはセイファートの試練なんてとてもじゃないが乗り越えることなんてできないはずだ。だから、先ほど述べた理由はファラに当てはまると言える。」
「それじゃ、まだ理由あるのか?」
メルディの言葉に僕は頷く。
「ああ、もう一つの理由があると僕は考えている。先ほど、愛情表現の境が曖昧だと言ったな?それがおそらく原因だ。だから、自分が相手に対してどんな愛情を抱いているかも分からなくなってしまっている。今まで知る必要がなかったんだから当然だな。だが、リッドの場合、自分の気持ちに気づいたはいいが、ファラが自分にどんな愛情を持っているのか分からないのが現状だ。当人が自覚していないのに、それが相手に伝わるはずもない。それが異性に対する愛情だと確信できる、又は保障があるなら話は別だ。でも、もしそれが『家族愛』、『友情』だったらどうする?ならば、そんなリスクを背負うよりも、今のあやふやにされている愛情関係を継続した方がよっぽどいい。あやふやだから、たとえ自分の愛情と相手の愛情の類が違っても問題ないからな。」
見れば、僕の話を聞いていたメルディは悲しい顔をしていた。
「それじゃ、メルディ達できること何もないか?」
縋るような声に、首を縦に振ることしか僕にはできなかった。
「ああ、当人達が今の関係を打破しようと思わない限りないだろうな。けど、安心してくれ。長々としゃべっては何だが、僕の仮説が正しいと言う確証はどこにもない。お互いただ恥ずかしがって言えないだけ、という可能性も十分にある。」
けど、とキールは口に出さずに思った。僕の仮説が正しいならば、リッドとファラの一部の行動を立証することができるのもまた事実だ。ファラがラシュアンの惨劇の事実を言えなかったことも、リッドが病的なお節介の原因が何であるか追及しなかったのも少なからず影響していると考えることができないわけじゃない。しかし、僕もあいつらのこと言えないな。キールは自嘲気味に微笑んだ。メルディが恥ずかしい言葉を口にするのも抱きついてくるのも当然のものとして捉えて、その裏に潜むメルディの気持ちも考えようとしなかったのだ。これからは善処しよう。そうキールは決意した。少しでも多く彼女の笑顔を守れるように…。
「ははっはっは」
その頃リッド達はキールが自分達のことを話しているなどと露知らず、ファラからこの間の話を聞いてリッドは笑いこけていた。
「キールもさっすがに、そこまでは言ってなかったぜ。」
笑みを含んで言ったその言葉は、キールとメルディのあまりの仲の良さに半分呆れも混じっていた。だが、ファラは顔を曇らせた。彼女は相手がリッドであっても、安易に人の悩みを話すことを好まない。それなのにも関わらずリッドに話したのは、自分のした行動を後悔しているからに他ならない。リッドはそれに気づいたのか、目を細めて尋ねる。
「心配か?」
「そうだよ。だってもしかしたらそれでキールが誤解しちゃったりしたら…。やっぱりあんなこと言うの、まずかったのかなぁ。」
ファラでも最初はいいと思ってやったお節介を後から不安がったりするもんなんだと、変なところでリッドは感心した。自分はファラの扱いに慣れている。こういう時のファラは大抵、同意してほしいか、または…、
「まぁ、キールにとっちゃ余計なお節介だな。」
少しだけ茶化してみた。ファラはこっちを見て目をまん丸にして呆けていた。どうやら、今回は素直に自分の意見に頷いてほしかったらしい。ファラの目が、キールのために言ってあげたのになんでなの?と問うてくるのを俺は認めて、苦笑いを浮かべながら言った。
「嫌よ嫌よも好きの内ってことなんだろ?照れちゃいるがそういうこと本当に嫌がってないんだよ、あいつは。」
俺の言葉に、ファラはそんなの知ってるよ、と言うような顔で返す。
「キールがすごい照れ屋さんなのは私だって、分かってるよ。でも、ここはインフェリアだし、人前ではまずいかなぁーってそう思って言ってあげただけなのに…」
言外にお節介とまで言わなくてもいいじゃない、という意味が含まれていた。少し拗ねているファラに、俺は違うというように笑いかけた。
「だーかーら、心配することはねぇってことだよ。あいつらのことだ、帰ってきたら面白いもんが見れるぜ。」
俺がキールのことを面白がってるのが伝わったのか、ファラは怪訝な顔になる。
「面白いこと?もー、またそんなこと言ってキールのことからかうんでしょ?」
ファラが俺を咎める口調で言ってきたので、俺はそれを軽口でかわそうと思った。
「キールにとっちゃ、ファラのお節介よりマシだろ。」
しかし、口は災いの元とはこういうことを言うのだろうか。ファラは俺の言った言葉に本当にかちんときたらしく、軽く俺の胸の辺りを拳で叩いた。
「何よそれ!」
「いでっ!!」
でも考えても見てほしい。地面に横たわっている俺に、隣に座っているファラが身を乗り出して拳を叩き込めば、不自然に二人の距離が縮まることに。お陰で、俺の視界はファラで埋まった。さすがにかなり鈍感なファラでもそれには気づいたようで、はっとしてそのまま動きを止める。さらに悪いことに、不運は重なるらしい。突然強い突風が吹いて来て、この見晴台全体に吹き荒れた。俺が気づいたときには、俺の上にファラが覆いかぶさるような格好になっていた。お互いの顔と顔があと5cmでぶつかる距離にあって、男の俺としては少々複雑な気もしたけど悪くはないと思えた。そう、ファラの瞳を見るまでは。
いつもの自分達よりもずいぶんと顔が近いから、だからよく分かった。ファラの瞳の中に恐怖の色が滲んでいることに。俺はそれを見て、寝転がったままの体を動かす気にはなれなかった。この気に乗じて、近づいたお前が悪いんだろ?っていつもの冗談半分な調子を装って、額にキスすることも抱き寄せるもできたはずだった。けど、あんなファラの顔見ちまったら、そんな気持ちはいっぺんに吹っ飛んでしまった。…ファラ、お前本当に怖いんだな。安心しろ、俺から勝手にこの関係を崩すことはしねぇから、ちゃんとお前を守るって決めたから。だから、そんな顔すんなよ。
「ご、ごめんね。」
ファラは俺の微かな表情の変化に気づいたらしく、どう解釈したのかは分からなかったが謝ってきた。いそいそと俺の上から体をどける。ファラの温もりが離れていくのと同時に、俺の中に喪失感が湧き上がる。
「どうして謝るんだよ?」
いつものように言おうとして失敗した。制御しようとしたはずの気持ちは上手く抑えきれず、声の質を硬いものにした。それでもファラは他のことに気を取られていたらしく、俺の言葉は聞き取れたものの言い澱んだ。
「え?あぁ、リッドを下敷きにしちゃったから…?」
なんで最後が疑問形になるのか理解できなかったが、ファラがわざとらしく思い出したよう言う。
「あー!そろそろ畑に戻らないと!!リッドもまだ狩り終わってないんでしょ?私は先に村に戻ってるから、また後でね。」
そう捲くし立てるなり、足早に見晴台を後にする。村のほうに消えていくファラの背中を見ながら、俺は重いため息をついた。なんとなく分かってはいたことだけど、それでも実感したくない事実を目の前に叩きつけられたような感覚だった。嫌でも思い知らされる、ファラが俺にそういう関係を拒んでいることを……。